似権主義者の死刑廃止論者が使う言葉は「犯人の境遇が悲惨だった。」だが、それならば犯人の境遇に何の関係も無く殺された無垢の被害者は、「犯人の『鬱憤ばらし』」の為に殺されたことに成る!
ぼやきくっくりさん 日弁連「死刑廃止」宣言で思い出した本村洋さんの言葉 http://dlvr.it/MQHk1K
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此奴等屑供、国家が殺人するのは行け無いと言っていて、殺人事件の殆どを起こす鮮人は幾らでも日本人を殺しても良いと言っている様なものなのだから、其れなら此奴等屑供、存分に殺せる法制化を急ぐべき。
此奴等恐らく日本人じゃ無いだろう。
要は殆どの殺人が鮮人の犯行だから助けたいだけだろう。 此の弁護士鮮人?供、余りに巫山戯ている。
死刑廃止の法制化より、此の弁護士鮮人?供を出会い次第打ち殺して良い法制化を急ぐべきである。 何の落ち度も無い日本人が老人であろうが女性であろうが赤ん坊であろうが、何の躊躇いも無く、悪鬼供の鬱憤晴しに強姦され、殺された犠牲者は山と居るのだ。
※ 「冤罪の危険性」は本質的に「死刑廃止論」と直接結び付けられるものでは無い。
因果応報、悪い奴は犯行の悪辣さに応じて罰するのは当然とするのは司法権の範疇に属す倫理道徳観の社会通念の在り方に関わることで、誤認捜査や脅迫的取り調べの問題は、警察や検察の警察権の範疇で方法論として考えるべき問題である。
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