意思による楽観のための読書日記

水神(下) 帚木蓬生 ****

下巻は、堰渠の工事が始まる場面から。筑後川に沿って40ヶ村にわたる江南原の庄屋たちが集まった正月の集まり、そこに久留米藩の普請奉行が現れ、筑後川に堰渠を建設することを藩として決めたと告げる。藩の決定であり、反対していた14ヶ村の庄屋たちもこれでもう文句は言えない。40ヶ村の農民たちから夫役を出すのは当然だが、それに加えて藩下の筑後川流域の遠くの村からも夫役の農民が駆り出されることとなった。灌漑事業による水の恩恵は、田への水利だけではなく、洪水防止にも役立ち恩恵があるはずという理屈であった。

工事が始まると、通常の夫役であればいやいや付き合わされる労働奉仕という性格であり、なんとか手を抜くことを考えがちな農民たちだったが、今回は違う。夫役の成果は自分たちに直接田への水利という目に見える恩恵としてかえってくるからである。夫役に駆り出されたそれぞれの村人たちは自分が受け持つ工区の進捗が他の工区よりも遅れたり、水漏れがしたりすることがないように一生懸命働いた。反対していた14ヶ村の村人たちも賛成していた村人もそれは同じ気持ちだった。

自分の財産をなげうち、命懸けで上訴した五人の庄屋は、40ヶ村の農民だけではなく、城下の商人たちからも尊敬の目で見られるようになった。村人たちの食費や工事のための工具、その他費用は5人の庄屋がなんとか工面したが、それでは足りなかった。庄屋たちは町の商人に借銀をするために城下まで足を伸ばした。おずおずと90両の借銀を申し出ると、普通は利息を3割取るところを1割でいいといい、毎年11両を10年間で返済するというまたとない条件で借銀することができた。五人の庄屋の噂は商人たちのあいだでも広まっており、自分たちも何か出来ることをしたい、という申し出だった。

14ヶ村の庄屋たちからも支援金の150両がもたらされた。自分たちが当初は上訴に反対表明し、反対上訴をしたことを詫びた上で、自分たちも出来る範囲で支援したいという和解の申し出だった。

工事は決して容易なものではなかった。既存の水路を広げる際に出てきた大きな岩を掘り返すために村人たちは大変な苦労をしたが、掘り出したその大岩を筑後川まで転がして行く時には通り道で働いていた他の村人たちも大岩を一緒になって押した。その大岩は堰渠の真ん中に沈められ、農民たちの努力と協力の象徴的な印となった。侍たちは農民たちが必死で働くようにと、「失敗したら我々が死を持ってお詫びします」との言を、5本の十字の磔棒を立てることで示そうとした。しかしそのような脅しは今回の夫役では全く不要であった。農民たちは五本の十字を五人の庄屋たちが自分たちの働きを見守ってくれている、と一層励んだのだった。

水路が完成し、堰渠で溜められた水を最初に水路に流した時には、流し込んだはずの水が逆流して水門を破壊するという事故が起きた。誰かが責任を取らねば収まらない、その時、下奉行でずっと農民たちの願いを叶えるべく陰で支えてくれていた侍が腹を切って、遺言で堰渠建設成功を殿様に訴えた。そのため、農民たちにはおとがめはなく、その後も工事は進められた。

工事が進む中でも、元助と百姓娘の恋も芽生えた。そして工事が完成した時には庄屋の口利きで元助の祝言も決まった。めでたしめでたしである。

ストーリーは単純だが、実際の工事や、農民たちの必死の願い、そしてなにより5人の庄屋の文字通り決死の上訴、そして推進力は今も語り継がれている。先祖が舐めた塗炭の苦しみをこれ以上自分たちとその子孫には味あわせたくないという願いである。打桶という単純な水汲み作業に一生を捧げようとしていた下働きの元助の視点から、そして5人の庄屋のひとり、山下助左衛門の視点から、帚木蓬生の筆はこうした農民たちの思いを、見事に描いている。「国銅」という奈良時代の仏像建設を取り上げた小説があったが、その物語に通ずるものがある。数年前に博多から柳川に行く途中に久留米はあったが、その時には松田聖子や坂井泉水が生まれた場所だな、なんて考えながら素通りしたものだが、次回、博多に行く機会があったら、ぜひ久留米に立ち寄りその場所を見てみたいものである。



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