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意思による楽観のための読書日記

神社に秘められた日本書紀の謎 鎌田東二監修 渋谷申博著 ****

推古朝に始めた遣隋使で、蘇我氏が中心となる連合政権は自国の国家としての成り立ちの遅れを痛感した。その後も継続した遣隋使、遣唐使を通じ、ヤマト政権は、当時の先進国であった隋、唐の先進文化を取り入れながら、国家として必要な制度設計をし続けていた。乙巳の変で蘇我氏からの権力奪取に成功した政権は、自国における歴史書をあらためて作成することを思い立ち、天武朝・持統朝に編纂を指示。元明・元正天皇時代に国内向けに古事記、他国向けに日本書紀を編纂し終えたという。内容的には大筋は共通するものの、それぞれの性格の違いから異なる部分もある両書であるが、中国の歴史書との整合性や、その当時の豪族たちの立場、人々の記憶との整合性を配慮し、ヤマト政権の正当性と由緒正しく長い歴史を有していることを訴える内容として体裁を整えた。推古朝以前の継続する一系統としての天皇家の事実確認は難しく、日本列島各所に群雄割拠していたと思われる豪族、勢力にも、それぞれの正当性など言い分はあったはず。本書では、列島に点在する神社と言い伝えに着目し、神社の成り立ちや言い伝えと記紀記述を分析。そして神社存在の継続性は、神社の場所に勢力を持つ豪族とその支持者、支援者の存在を抜きにしては語れない。本書では日本書紀に記された歴史と各地神社の歴史の整合を考察することで、日本史の事実に迫る努力をしている。

記紀の世界観は、天と地。天には高天原があり、アマテラスなどの天つ神が住んでいる。地は当初は沼状の場所だったところにイザナギ・イザナミが国生みにより日本列島が形成された。葦原中国(あしはらなかつくに)である。葦が生えるような湿地帯が稲作には向いていて豊かな土地だった。地上の神は国つ神。地下には死者の国である黄泉の国があるが、スサノオが赴いた根の国との関係は不明。海の向こうには常世の国という楽園があり、海にはワタツミという海の神の宮殿がある。

高天原神話、出雲神話、国譲り神話、天孫降臨神話で、スサノオが降り立った場所は朝鮮半島新羅、出雲、安芸と3説がある。天孫とはアマテラスの孫であるニニギのこと。降臨を命じたのはアマテラスのはずであるが、書紀ではタカミムスヒが八百万の神を率いたともされており、神話の主人公が入れ替わった可能性がある。日向三代とはニニギの子である海幸彦、山幸彦と神武の父であるウガヤフキアヘズのこと。日向とは書紀からは九州東海岸で宮崎あたりと解釈できるが、古事記には韓の国に向かい合い、笠沙の岬に通じ、朝日と夕日が当たる場所とある。笠沙は薩摩半島の西端であり、記紀で記述が矛盾している。

古事記では、アメノヒボコが新羅から来たこと、神功皇后が新羅征討を行ったことは記述しているが、基本的に中国や推古以前には伝来していたはずの仏教のことは述べていない。聖徳太子は「用明の間人穴穂部王を娶って生みませる御子である厩戸豊聴耳命」と解説するだけで、法隆寺、17条憲法、冠位十二階の記述もない。一方の書紀では中国との外交記述、仏教と神道についても詳述されている。時代が下ると仏教記述が増えているのは中国を意識してのことか。

三種の神器は鏡、勾玉、剣だが、アマテラスがニニギに天下る際に託したもの。崇神時代に鏡と剣は皇女豊鍬入姫に託され、その際分霊が皇居に保管。その後、垂仁の皇女倭姫に再委託されて本体は伊勢神宮内宮に、剣はヤマトタケル東征の折に熱田神宮に祀られる。ヤマトタケルは景行の皇子で本名は小碓(おうす)。双子の兄大碓を素手で引き裂いたことが原因となり、景行に恐れられ熊襲成敗を命じられる。熊襲の首領を討ったその帰り道の出雲では出雲建(たける)も成敗したが、今度は東国12国平定も命じられる。叔母の倭姫は小碓に草薙の剣と小袋を渡し、それが役立ち妃の弟橘姫を失うが東征をやり遂げた。尾張で結ばれた宮簀媛(みやずひめ)のところに草薙の剣をおいたまま伊吹山の神を退治に行って、祟りで病死。これが有名なヤマトタケル物語だが、これは古事記の記述。書紀では大碓は殺さず、熊襲征討のあと大碓は弱虫なので、代わりに自分が東征もするという。景行との親子関係も良好、というのが書紀。ヤマトタケルは大王家に仕えた武人集団の象徴だという。その子が応神であり、熱田、草薙、焼津という3つの神社がヤマトタケル東征の要衝に鎮座するのも象徴的である。

ヤマトタケルと同様に、天皇という位置づけではないはずの神功皇后が、記紀ともに早くに死んでしまう夫の仲哀に代わって詳細に記述される。常陸国風土記には神功皇后を息長帯天皇と記されている。書紀では、崇神、応神より長く、仁徳に匹敵するボリュームを割いて書かれている。夫仲哀と赴いた熊襲成敗、仲哀の死、その後の新羅征伐、応神となる御子出産の記述がある。書紀では魏志倭人伝を引用、卑弥呼と神功皇后である息長帯比売が同一人物であるかのような書き方をしている。新羅征伐の帰り道に立ち寄った筑紫(香椎宮、筥崎宮、宇美神社)、穴門(長門住吉神社、豊浦宮)、長田(長田神社)、活田長狭(生田神社)、広田(廣田神社)があり、神功皇后による外交の成果を支えた各地の豪族の存在をことさらに強調している。

記紀には八幡神は記述がない。八幡信仰自体は古代よりあるため、全国で最も数の多いとされる神社である。皇室との関係では道鏡事件で名を挙げた八幡神、九州での知名度は高いが記紀に記述がないのが壁となる。そこで、九州で活躍した神功皇后の息子である応神を八幡神の祭神だとすることで、あとづけながら八幡神が皇祖神の地位を獲得する。その後、仁徳朝時代には数多くの土木事業が行われ、土木技術に長けていた渡来人が大活躍する。土木工事に必要なのは、多くの人でもさることながら、運河や土手、灌漑、測量などの技術とそれを支える道具とその使い方である。こうした開発を支えたのが部の民と呼ばれた職能集団で、土器、鉄器、石造りなどであり、数字と計算、その記録など多くの渡来人が携わった。本書内容は以上。

ストーリーテリングとしての古事記、多様な逸話と歴史の集大成たる日本書紀、編纂者たちの思惑と、関係者への気配り、大陸への強い憧れと承認欲求が感じられる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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