意思による楽観のための読書日記

中世民衆の世界 藤木久志 ***

戦国時代の民衆は地頭や代官の年貢取り立てに抵抗して、一揆を起こしたり、代官を通り越して越訴を実行したりしていた。「領主は当座、百姓は末代」と言われた関係にある代官と農民、戦国時代の為政者や武将たちがどのように農民たちをコントロールしようとしていたのか、農民たちはそれらにどう対応していたのだろうか。

飢饉の年は、年貢も払えず村から逃げる農民が多く、領主としてはなんとかこれを食い止めたかった。鎌倉時代の御成敗式目では「百姓が村を捨ててよそへ逃げる時、もしその年の年貢をすべて収め終えていれば去留は民の意にまかせよ」と決めていた。これは大飢饉や大災害を切り抜けようと考えだされたのと同時に、江戸時代までも続いた農民と領主との了解事項でもあった。

戦国の村には掟があり、これを破るものは厳しく咎められた。しかし、村の長老や主だった者たちが、掟破りだとして村人から財産を奪ってしまうことも相次いだため、掟破りは罰するものの、その財産は村の管理として、その子供に相続させる、という方向に変わっていった。これは家を大事にしていかなければ村の繁栄が阻害されることからでてきた知恵であり、その後19世紀の国法によっても遺産相続に同様の考え方が踏襲された。

村には村の共同財産でありシンボル的存在として惣堂、阿弥陀堂などがあった。旅人たちが休む場所、農民たちが祭りをする場所など共同で利用する空間として利用されていた。寺の仏が惣堂に設置されて僧侶が常駐する場合もあったが、その場合でも惣堂自体は村の共有財産とされ、寺の所有物とは一線を画した。

村人を軍隊として使役する戦国大名は、陣夫などに米を一日4合飯は二度などと取り決めていたという。食料は自前、ということではなかったようだ。また、地頭との関係でも、農民が一方的に地頭に年貢を収めるだけではなく、地頭も毎年の行事の中に、農民への反対給付を求められていたことが、「指出」といわれる書物に残されている。

江戸時代になって村同士のいざこざがあった場合には鉄火と呼ばれる儀式で決着、神前で双方が熱鉄を握り正邪を確かめる儀式であるため、指名されたものの手は使い物にならなくなるという乱暴なもの。その補償としては、その家の惣領一人は課役を永代御免とする約束があったという。こうした一見厳しい取り決めは、容易にいざこざを起こさないための抑制手段であり、村の存続、団結、そして領主への圧力ともなっていたと思われる。現在の日本の地方に残る村の取り決めや伝統の中には、こうしたしきたりの残滓が見られるのだろうか。



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