意思による楽観のための読書日記

藤原氏千年 朧谷寿 ***

7世紀の中臣鎌足から16世紀山科言継までの、藤原氏の始まりから、藤原氏が五摂家などに分家していく歴史をたどる。

中大兄皇子は皇太子に20数年在位、その後天智天皇となったが、孝徳帝崩御の時には29才になっていた。皇極が斉明として重祚したのは、中大兄皇子が孝徳の皇后であり実妹の間人皇女と恋愛関係にあり、即位すれば間人皇女を皇后とすることになってしまうことを憚ったという。間人皇女が崩御した後に天智天皇として即位したのはその現れであると。そしてその翌年、中臣鎌足が危篤状態になった時、天智天皇は鎌足に最高の官位大織冠と内大臣の位を与え、中臣という姓に代えて大和の国の地名であった藤原を姓として与えた。程なく鎌足は生涯を閉じるが、これが藤原氏のおこりであった。太政官の位を藤原氏が司ることは神祇官であった中臣氏と新たな藤原氏が太政官を受持ち、政治と祭祀の分離、政教分離をも意味した。藤原朝臣は不比等に継承させ、神事を司るのは意美麻呂として中臣姓を名乗らせたという。

薬子の変の後、藤原4家の内、式家は勢力を失い、平城京と平安京の間で揺れ動き続けた都の場所が、嵯峨天皇の時代にようやく平安京に定まったという。そして蔵人頭が天皇の機密保持を目的として令外の官として設けられたのもこの時、尚侍の役割を蔵人所が受け持つこととなった。その蔵人頭の初代が藤原冬嗣であった。後に、冬嗣は参議、そして右大臣、左大臣となるが、蔵人頭は公卿への登竜門となったのである。

賜姓皇族とは源氏や平氏として皇族から臣下になった一族であり、清和源氏、桓武平氏がある。源氏、平氏ともに歴史の流れの中で武家の一族となるのだが、藤原忠平政権の晩年、東国では平将門と西国の藤原純友が争乱を起こした。将門は若い頃には都で忠平に仕えたこともあったが任官できず帰国、土地の豪族と諍いを起こす。一時は朝廷に事情を説明して事無きを得たが、その後も常陸の国司と争いを起こしたものに加担、常陸、上野、下野の国府を占領してミニ国家樹立を試みた。2ヶ月後の940年、天慶3年には将門の首は都で晒されることになる。同じ頃、元伊予の国の尉であった藤原純友は瀬戸内海を荒らしまわる海賊となって、筑前の大宰府をも略奪の対象としたため、朝廷は官軍を編成し滅ぼされた。純友は北家の末裔であり長良のひ孫であった。10世紀のこの承平・天慶の乱は都の貴族に武力の怖さについての衝撃を与えた。

道長には2人の妻がいた。その内の一人、源倫子の父は宇多天皇を祖父に持つ賜姓皇族でもあった源雅信、妻は藤原穆子(ぼくし)、穆子は道長の将来性を見ぬいて娘を嫁にやったという。そして倫子が生んだ子供が道長の栄華の源となった。倫子が生んだ4人の娘は一条妃、三条妃、後一条妃、後朱雀妃となったのである。しかし道長も死に、まもなく東国では平忠常が反乱を企て、奥州では前九年の役が起きた。前九年の役では追討側に加わった清原氏は後三年の役では清原清衡が源義家と組んで勝利者となった。そしてこの藤原清衡が奥州藤原氏の初代であり中尊寺を建立、権勢を誇ったのだが京都の藤原氏との関係はない。こうした内乱の続発が中央政府の没落を象徴し、地方豪族の躍進を中央政府にも印象づけた。そして追討にあたった源氏は東国に勢力基盤を築き、鎌倉政権へとつながっていく。12世紀半ばの保元・平治の乱は皇室・摂関家などの対立から起こったが、武力によって解決されることで、武士の勃興を許し、地下人と蔑まれた武士が権力の前面に登場するきっかけとなった。

藤原氏では北家がその後主流となったが、その中から五摂家が生まれた。鎌倉幕府の三代目実朝暗殺で直系が途絶え、藤原家から公家を迎えた。その中で忠通の子、基実が近衛家、兼実が九条家を起こし、近衛家からは更に鷹司家が生まれ、九条家からは二条家、一条家も生まれた。これが五摂家となり摂関の位と荘園も持つことになる。この時代の公家は「こうけ」であり、その後、武家に対する貴族の総称として鎌倉時代以降は公家(くげ)と称されることになる。この摂関家のシステムは江戸時代末期まで継続、千年継続することになる。例外は秀吉とその甥秀次が関白となったこと。それでも秀吉は形式上近衛前久の養子となり藤原朝臣となっている。藤原氏が五摂家と呼ばれ権勢を誇ったのは千年のうち、前半200年であり、800年は形式的な摂関家であった。家名は平安京の街路名からつけられたものが多い、特に東西の通りである。そして寺院(世尊寺、勧修寺、西園寺、徳大寺)、地名(山科、日野)がある。

ちなみに、慶応三年の王政復古の舞台となった禁裏の小御所には明治天皇、岩倉具視、大久保利通らとともに公家が同席したが、呼ばれたのは万里小路、中御門、正親町三条の3人だけであり、五摂家は招かれていない。そこには従来の制度を否定するという意味合いが込められていた。しかし明治17年に定められた華族令では公侯伯子男の爵位が認められ、徳川家や五摂家は公爵に清華家は侯爵に、大臣家、羽林家、名家は伯爵になったため、特権階級は温存されたとも言えるが、第2次大戦後終了が華族の最後であった。今でも唯一公家屋敷に住むのは冷泉家であり、天皇が東京に移り住むときに京都留守を承ったという。そして冷泉家の墓には今でも「藤原朝臣」と記されているという。



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