筆者によれば、日本文学が形作られたのは明治以降であり、その最初が明治17年の三遊亭円朝の「牡丹灯籠」であり、それに続いて18年に坪内逍遥の「小説神髄」、20年には二葉亭四迷の「浮雲」それに続いて「あひびき」が書かれた。最初の言文一致小説は山田美妙の「武蔵野」そして「夏木立」と続く。22年には幸田露伴の「風流仏」、23年には森鴎外の「舞姫」、24年には幸田露伴の「五重塔」26年には北村透谷の「内部生命論」、27年には高山樗牛の「滝口入道」、そして28年に樋口一葉の「にごりえ」「たけくらべ」が登場する。筆者はこの樋口一葉を明治文学の折り返し点と位置づけ、次のように評価して見せる。
「わたしは、一葉の小説の中にあるのは、明治二十年代後半という、興隆しつつある資本主義社会のもと、新しい言語による支配が確立されて行こうとする時代の、そして当然ながら男性中心社会の、そのいずれにおいても少数者であるような若く、金を持たない、教育を受けていない女性のリアリズムではないかと考えるのです。明治28年の読者たち、とりわけ女性たちは、この小説の中に私がいる、と感じたのではないかと思うのです。そして現代の読者の自分たちにとってもにごりえに登場する人物は現代小説に登場してくる人の感想や感覚とほとんど変わらないと思えるのです。」
そのあとに、現代小説の綿矢りさについて目を転じて、「蹴りたい背中」「インストール」を読んで見せる。綿矢りさの比喩を伴う複雑な修飾の多い文章を、現代文学の究極の言語表現であり、小説というのは比喩を書くことであるからその極点にまで到達していると評価する。近代文学というものはあいまいなものに明確な輪郭を与えようとして自然主義的リアリズムを生み出した。目に見えないものを目に見えるように書くことこれがリアリズムの根本である、として綿矢りさを評価する。
筆者は、小説を書く人には、小説家のOS(オペレーティングシステム)というものがある、と表現、作家はそれぞれの範囲で過去の文学作品を読んで、そのうえに自分の作品を書き上げる。現代の小説家なら少し昔から現代までの小説を読んでいるだろうし、そしてその作家が生きてきた近い過去から現代の社会環境の影響を受けている。そしてそのOSは20世紀末で新しいものに入れ替わったのではないかと表現する。つまり作家の世代交代なのであろうが、OSとは筆者独特の表現である。
現代小説を読みながら、過去の小説を思い起こし、そのつながりや比較をしてみること、単に小説の歴史に詳しい、ということではなく、小説を味わう方法について一家言ありという筆者の面目躍如ともいえる一冊である。
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