稲荷の山に千本鳥居が出現したのはいつのことなのか。それは神仏判然令がきっかけで設置され始めた「お塚」。お塚とともに鳥居も設置されるようになり、それらが増えたのは明治維新以降、今では3000基以上あると言われる。お塚信仰は中世に遡る。現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰、間の峰、荒神峰は、元はお塚と呼ばれる墳墓のような小山だった。奈良の大神神社の御神体は三輪山だが、稲荷社も磐座のかわりに塚(峰)を信仰する同様の神社信仰があった。稲荷社は都に近かったため、そこに現世利益を願う庶民の願いが重なったのが千本鳥居の始まり。
八坂神社は元は祇園社、祇園祭の祭神は祇園社のもの。神仏判然令に伴う神仏分離運動により祭神が変更され、牛頭天王は素戔嗚命に、妻の頗梨采女は櫛名田姫になった。祇園社は656年に高句麗から来た伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られていた牛頭天王を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのが嚆矢。しかし室町時代の群書類従にはすでに牛頭天王と素戔嗚命、頗梨采女と櫛名田姫の習合が記載されている。江戸時代にも同様に牛頭天王と素戔嗚命は同一人物だという記載が仏像図彙にある。さらに牛頭天王は素戔嗚命、武塔天神、蘇民将来と結びつく。いずれも災厄をもたらす神であり、祟り神は逆に利益をもたらすという信仰であった。祟り神を祀るのは道真公を祀る北野天満宮、崇徳天皇を祀る白峰神社がある。
清水寺の建てられた地は埋葬地であった鳥辺野の地。舞台から飛び降りた人たちの目の前には埋葬された人たちが眠っていた。本尊は十一面千手観音像で実際に千本の手を持つわけではない。因みに、本当に千本の手を持つ観音像は、唐招提寺の千手観音、藤井寺市にある葛井寺と京田辺の寿宝寺に存在するが珍しい。清水寺の本尊は33年に一度開扉され、2000年がその年だったので次は2033年。
西芳寺の拝観料は「3000円以上」でそれ以上は布施という考え方。理由は参拝者が増えすぎて環境を守りきれないとお寺が考えたから。西芳寺が苔寺と呼ばれるようになるのは明治以降ではないかと考えられている。夢窓疎石が作庭をしたときには苔が生えていたらしいが、その後は手入れがされず枯れていたと思われる。時を経て、戦後経済的な余裕を背景に京都観光が盛んになり、観光客が撮影する写真もカラー化が進んだ。その頃から苔寺と有名になり観光客が激増した。
金閣寺が建造された当時の姿は明らかではないが、一層目、二層目は木目、黒漆塗りで、三層目だけが金箔だったと考えられたが明確ではない。しかし外壁の金箔はすぐに剥がれたのではないか。金閣寺は元は登楼して外の景色を楽しむ建造物だった。戦後焼失した金閣寺を再建する際、2つのオプションがあった。創建時に戻す方法と焼失前に戻す方法で、採用されたのは創建時に戻す。現在のように国宝指定があれば焼失前に戻す方法が法律として定められているが、その時には焼失が激しく、原型を留めなかったため国宝指定が解除された。そのため、再建の方法は金閣寺と京都市に委ねられた。再建開始直前まで第二層は黒漆塗りという案だったが、当時発見されたという第二層の隅木の一部から金箔が見つけられたというニュースが有った。それを見た再建に関わった京大の教授が第二層の内外とも金箔にすることを急遽決めたという。外側の金箔は堅牢化を図るため5倍の厚みを持つ金箔にされ、塗装予算は35万円から606万円に膨らんだ。京都市民の支持があった理由に、三島由紀夫の「金閣寺」があり、当時コンクリートで再建された名古屋城、熊本城、岡山城などへの反省があった。第二層の外壁にも金箔がなければ見た目は大きく変わっていたはず。
銀閣寺は銀箔が貼られたことはなく、庭に広がる白砂に月光が当たるさまを銀に例えた。白砂は白川で採取される白い砂で、京都の寺庭に多く採用される。応仁の乱以降設置された銀沙灘や向月台が趣を添えるが、それを見た人たちが金閣に対比して銀閣と呼んだ。因みに銅閣もあり、祇園の八坂の塔であるが、1928年に民間により建設され、普段は公開もされていないので有名ではない。
平等院鳳凰堂は寺でも寺院でもなく、どの宗派にも属していない。管理主体が天台宗最勝院と浄土真宗の浄土院が共同管理となっている。足利尊氏と宇治川で対峙して戦った楠木正成軍が放火したため、多くの寺院建築が消失し、密教色の強かった平等院の性格が変化してしまった。
京都の鬼門は延暦寺、裏鬼門は石清水八幡宮。京都の町家や御所にも鬼門除けが設置される。鬼門方角に柊、桃、槐などの魔除け木を植えたり、東北の角をなくするという「缺け」があり、角に窪みが設けられる。延暦寺の前身である一乗止観院が建立されたのは788年、平安遷都は794年。南都六宗に対抗して延暦寺でも受戒できるようになり東大寺などに出向かなくても僧侶になれる道ができ、比叡山は発展した。その後の鎌倉仏教の創始僧侶たちの殆どが比叡山で学んでいる。宇佐八幡宮から八幡神を勧請したのが石清水八幡宮で859年のこと。その八幡神は皇祖神とされ応神天皇が習合、継体が皇統途絶とならないための信仰だった。石清水八幡宮には護国寺もある神宮寺であり、八幡神は武家の神とされ足利氏、徳川氏の崇敬も厚かった。神仏判然令により、多くの寺と仏像が売りに出され、神社の形のみが残されたが、放生会という仏教儀式があるのが神宮寺の名残。
京都には仏教の本山が集まっている。天台宗が延暦寺、真言宗の中心は高野山金剛峯寺だが教王護国寺(東寺)があるのは京都。浄土宗は知恩院、浄土真宗が東西本願寺、臨済宗には15の宗派があり、建仁寺派、東福寺派、南禅寺派、大徳寺派、妙心寺派、天龍寺派、相国寺派、興正寺派の8つは京都にある。黄檗宗は黄檗にあるが元は臨済宗。京都以外にある本山は南都六宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗。有名所では、清水寺は北法相宗、苔寺が臨済宗天龍寺派、金閣寺、銀閣寺が臨済宗相国寺派、龍安寺が妙心寺派。宗派別には、真言宗が神護寺、仁和寺、大覚寺、祇王寺、醍醐寺、六波羅蜜寺、智積院、泉涌寺、高山寺。天台宗が青蓮院、三千院、妙心院、毘沙門堂、曼殊院、二尊院、愛宕念仏寺、寂光院、三十三間堂。浄土宗では金戒光明寺、清凉寺、化野念仏寺、永観堂、光明寺。曹洞宗では詩仙堂、源光庵。日蓮宗では本圀寺、光悦寺、本能寺、妙顕寺、本法寺。
京都の名所と言われるような寺社が解説されたが、共通するのはインスタ映えする桜、紅葉、千本鳥居の朱色、金閣寺の金箔、苔寺の緑などの色合い。そして、神社仏閣由来や枕草子や源氏物語に登場する場面などで語られる歴史。しかし、その全てが古から存在するわけではなく、江戸、明治維新、太平洋戦争などでの大きな環境変化や歴史的変遷を経てのことだった。それでも観光客を見込んで昨日今日作られたテーマパークではないことがその価値。3300あると言われる神社、寺のそれぞれが歴史や色合いを持つ、それが京都。機会があるたびに訪れたい街である。本書は2018年5月発刊。