鎌倉時代から建武の新政を挟んで室町時代への移行期というのは日本史好きでもなかなか馴染みがない場面がある。本書テーマである「観応の擾乱」は1350-1352年ころに起きた足利兄弟尊氏・直義とその執事高師直・師泰親子による肉親と忠臣を巻き込んだ内輪もめに、全国の豪族たちが巻き込まれた戦乱。全国的戦乱ではあるが内容的には内輪もめであるため「擾乱」という表現がされるのか、筆者にも不明であるらしい。擾乱の背景には従来勢力である寺社とその中での奈良興福寺・延暦寺などの勢力争い、南北朝に分かれた天皇家と摂関家同士での争い、滅ぼされた北条家とそれに連なってきた地方豪族と新興勢力との争い、さらには各地方における小競り合いが複雑に絡み合っていた。
小競り合いの背景には所領の安堵、訴訟の沙汰を誰がどのようにして決着させられるか、安堵と沙汰を決める権威の所在、現場における力の拮抗、現実的な結論と実質的な決着の行方は混沌としている。土地から得られる収入は、税として天皇家、摂関家に入る場合と、領家とその本家となる有力寺社に入る場合、さらには新規開拓分として地方で分配されてしまう部分があった。教科書的には国家権力として、天皇家、摂関家、武家へと徴税権力の中心が移行していくとされるが、現場ではその徴税の隙間や余剰分を如何にかすめ取るか、納めることを免れるかにしのぎが削られる。脱税、脱法すれすれの節税は古今東西、現代でも継続していることは万人の知るところ。
鎌倉幕府設立が征夷大将軍任命の1192年ではなく、頼朝政権による地方受領の全国設置が完了した1185年とされたのもこれが背景にある。北条得宗家が権力を失っていく原因にもなる所領安堵の仕組みを、足利尊氏は直義に任せた。尊氏が当初行ったのは、守護職補任と恩賞充行(あておこない)であり、直義は雑訴決断所における所領安堵、所務沙汰であった。軍事指揮や警察活動も直義配下である。保全・管理は直義、建武政権からの移行・変革に伴う処置が尊氏の役割だった。しかし将軍や直義が署名したとしても、それを現場で実行させる強制力発揮は、地方の力関係次第である。そこで執事であり実質的な運営者であった高師直の出番がある。「恩賞充行袖判下文」「裁許下知状」、沙汰における理非糾明の訴訟結果に基づく係争地占有停止命令の守護に対する発出などは高師直が行っていた。
鎌倉の時代の武家は惣領相続で、兄弟が領地を分割相続することが多かったが、それでは子孫が繁栄するほどに領地は細分化されてしまう。本家と分家が仲良く領地を守ってきたのが、本家と分家が領地をめぐり対立する様相を呈するのがこの時代。武士の結びつきが血縁かた地縁へと変化していく中で起きたのが観応の擾乱であった。武士勢力の各集団は、血縁よりも味方になれば得をしそうな強そうで中央とのパイプも太そうな親方に味方した。所領を持つ敵に勝てば領地安堵が期待できるとしたら、本家との争いも辞さない、こんな血肉の争いに巻き込まれるのを防ぐため、武装を始めた農民たちも自衛するようになる。
建武の新政後、北朝より征夷大将軍に任じられた足利尊氏と、実質的な幕政を任されていた弟直義は役割を分担してうまく政治運営を進めているかに見えたが、二人を実務で支えてきた執事であり御内人高師直・師泰親子と直義は価値観に違いがあった。従来からの寺社権益を重視し安定的な運営を志した直義と、新興勢力である武家の権益を重視した高師直では、所領の安堵と訴訟の沙汰の結果が全てである地方豪族から見れば大きくその性格が異なっていた。所領の獲得を最大の欲望とする地方豪族からすれば、権威の失墜し、所領安堵に役立たない天皇や公家はお飾り以下の存在。有力な豪族は摂関家であろうと有名寺社であろうと、お構いなく攻撃するようになる。自分に少しでも有利な采配者に権力を握らせたい、その思いが讒言につながり、南北朝の権力争いに乗じた小競り合いが連続し、どちらの勢力につくのかは、忠誠心や以前からの恩義よりもその時の勢いと損得勘定になることが多かった。単なる内輪もめであるはずの戦乱が長く続き、「擾乱」と呼ばれるようにあとを引いた理由はこのあたりにありそうである。
室町幕府成立に大いなる貢献をしたのは、四條畷の戦いで難敵楠木正行を破った高師直。しかし讒言によりその1年半後に執事を罷免されてしまう。その直後、主君である将軍尊氏の暮らす尊氏邸を数万騎の軍勢で取り囲み、その時点では政敵となっていた実質的な為政者直義を引退に追い込んで、尊氏を将軍に頂いた室町幕府体制を確立したかに見えた。直義はその後出家したが、1年半後宿敵だったはずの南朝と手を結ぶという奇策にでる。これを見た地方豪族の多くが、尊氏と師直を裏切り直義勢力に寝返る。戦いの結果、尊氏ー師直は破れ、師直・師泰親子・一族ともに誅殺される。実権を握ったはずの直義は、尊氏とともに政権運営を再開したが、そのわずか5ヶ月後直義は失脚。北陸から関東に没落後、多くの地方豪族は尊氏側に寝返り、直義は戦死。
しかしこれでも戦乱は終わらなかった。尊氏とその嫡子義詮の勢力に対抗したのが、直義の養子であり尊氏の庶子である直冬、南朝勢力が三つ巴の戦いを続けた。足利幕府と幕府に対抗する南朝、その諍いに乗じて利を得ようとする地方勢力が入り交じる争いは義満が将軍職につく頃まで続く。1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形式で南北朝の合一が実現、その後は南北が交互に皇位につくと約束されたが、その約束は果たされず、北朝支持の幕府と南朝支持勢力の小競り合いは応仁の乱ころまで続くことになる。本書内容は以上。
この頃の守護大名勢力図は、戦国・江戸時代まで影響することになるが、領地の争いが一応は決着する太閤検地まで戦乱は続くことになる。室町幕府は、果たしてどれほどの全国的な統制力を持てていたのか。現代の読者が想像するほどには地方は言うことを聞いていないのが実情のようである。実情の一端を知ることができる「切断面」、それが観応の擾乱。筆者も期待するところだが、「観応の擾乱」のことなら本書、といわれる一冊になるのではないか。