「観応の擾乱」を読んでいて気になる人物がいた、婆娑羅大名と呼ばれた佐々木道誉である。高校の日本史教科書で「騎馬武者像 足利尊氏」と解説されていた絵は、大鎧を着て太刀を腰に帯びながら、右肩には唼物造(いかものつくり)の四尺に余る長大な大太刀を担いでいる。実は高師直もしくは佐々木道誉だったのではないか、という話も紹介されていた。婆娑羅とは単なる目立ちたがり屋の乱暴者ではなく、他人が目をつけてもいない部分に面白さを見出す審美眼を持った者ではないかと。しかし同時に、能力もないのに「婆娑羅」じみた振りをするお調子者もいたはず。
建武の新政前後に流行した「婆娑羅」は、後醍醐天皇や義満が好んだ派手な装飾、金閣寺に代表されるような目立ったアートに象徴されるのかもしれないが、本来の婆娑羅は道誉ではないか。日本における芸術は、「おかし、あはれ、幽幻、わび、さび、いき」という控えめな美と、安土桃山文化や日光東照宮のような派手めなアートが時代を超えて繰り返される。婆娑羅も世紀を超えて傾奇者として江戸時代前期に現れる。その周りには必ずや「エセ婆娑羅」「エセ傾奇」がいたはずであろう。
婆娑羅は鎌倉末期から南北朝時代に忽然と出現した美意識、サンスクリット語の不動心を意味する「バージラ」に由来するというが、舞楽などで本来の拍子を崩して派手な演出で度肝を抜く手法、という方が説得力がある。身分不相応に遠慮がなく、豪奢華麗な衣装を好み、他人からの掣肘を嫌うのが婆娑羅とされる。「二条河原落書」に書かれた婆娑羅は「鉛づくりの大刀、ばさら扇の五つ骨、自由狼藉の世界なり」と表現されている。代表的な婆娑羅大名とされるのが、高師直、土岐頼遠であるが、道誉の多芸ぶりには遠く及ばない。道誉は、能狂言、茶の湯、立花、聞香、連歌というこの時代に濫觴を持つ今では日本文化とされる多くの諸芸の庇護者であり指導者だった。
道誉の佐々木家はもとは京極家であり、宇多天皇の孫雅信王に出自し、近江を本拠地とする宇多源氏である。鎌倉時代には検非違使を務める家柄で、平家物語の宇治川先陣争いの佐々木高綱は道誉の先祖。近江の京極氏、六角氏、高島氏、大原氏を祖として、承久の乱で幕府側に尽力した功績を持って、佐々木惣領家定綱の四男信綱が嗣いだ。その子が京の京極高辻に居を構え京極氏信と称した。庶流だったが、近江の大所領を相続、一族の六角氏と張り合いながら満信ー宗氏ー高氏(道誉)と連なる。1296年生まれ、19歳で左衛門尉、27歳で検非違使、29歳で従五位下佐渡守に任ぜられる。高氏が31歳のときに出家した法名が道誉。
1333年、足利尊氏に従い挙兵、建武政権樹立に貢献。1335年東国の北条時行が謀反(中先代の乱)した際、尊氏に従い戦功を上げた。翌年の尊氏入京に従い、戦功抜群のため佐々木家惣領を証される。1348年には高師直とともに四條畷の戦いで楠木正行を攻め戦功を上げる。観応の擾乱では終始尊氏義詮と行動をともにする。その後も将軍義詮とともに戦い、戦場での活躍は一貫して勇猛果敢であった。
この道誉が73歳で書いたのが「立花口伝大事」という日本最古の花の伝書。池坊専応による「立花口伝」の200年も前のことである。「花の活け方」「床の花」「違い棚の花」「祝言花」「神祇花」「仏前花」「遊宴花」「風流花」などと続き、師弟の関係まで述べられる。聞香では、鑑真が沈香、麝香など香料12種をもたらしたのが754年。道誉は180種の名香を保持し、6代将軍義政にまで伝えられた。連歌では2100首が収められた菟玖波集、編纂に協力した連歌師救済(ぐさい)が127首、後伏見天皇皇子の90首、二条良基の87首に次いで道誉が81首、尊氏が68首と続く。世阿弥の父、観阿弥と道誉は面識があり、世阿弥は道誉による猿楽の笛評価を気にしたという。闘茶に関しては千利休の「数奇道大意」に「京極道誉群を抽いて茶香を賞す」と記述があるとおり、当時盛んに行われていた栂尾の茶5種と非茶とされたそれ以外の産地の5種茶を目隠しで言い当てる「本非10種茶」に血道を上げていたことが想像される。
本業である武家としての働きがあると同時に、胎動を始めていた日本文化の担い手として、スポンサーとしての自負を背景にして、派手な装束での目立つ振る舞いが目立ったのではないか。南北朝時代の「二刀流」、街での評価も、単なる乱暴者ではない、文化の担い手である道誉が奇矯な振る舞いを見せることへの、ある意味での憧れが「婆娑羅」と評価されたとも思える。本書内容は以上。
平和な時代になると、道誉が上げていたような戦功はその場がないため、どうしても奇矯な振る舞いや派手な装束だけを真似する輩が出現する。それを婆娑羅というか、単なるお巫山戯ものと評価するかは、その時代によるだろう。江戸時代の傾奇者とされた町奴と旗本奴の代表格、幡随院長兵衛や水野十郎左衛門は、平和な時代の徒花だとも思える。自殺して憂国を訴えた昭和の三島由紀夫も、文学と勇猛の二刀流を目指したかった徒花だったのか。