戦犯から逃れようとした元陸軍参謀大佐が、終戦直前にタイの最前線から逃亡、僧侶に身をやつしてベトナム、中国へと逃れ、時の国民政府に自分を売り込んだ末に日本に帰国した、という自伝。自分で書いているため、自分にとって都合が悪いことは書かれていないが、ノモンハン事件以降の多くの作戦で多数の日本兵の命を無駄に殺してしまった張本人である。
WIKIPEDIAによれば、次の通り。「辻政信(1902年 - 1961年以降消息不明)は、日本陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜。軍人としての最終階級は陸軍大佐。ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」と讃えられた。その一方で、非人道的残虐事件を巻き起こした指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年4月に視察先のラオスのジャール平原で行方不明となり、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。」解説以上。
軍隊内部でも度々同僚や上司などと諍いを繰り返したが、中でも太平洋戦争開戦後のマレー作戦では第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。作戦参謀としての任務を放棄し第一線で命令系統を無視して指揮をとることに対して、第25軍司令官・山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。辻政信の人物評として最もよくその人物像を表す表現だと思われる。
本書に記された内容は、潜伏、逃亡生活から逃れ、日本に戻ってきてから1949年に書かれたもの。第18方面軍高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、敗戦が判明したとき方面軍司令官の中村明人中将に「国家百年の為この先潜伏する」と願い出て、中将は許可したという。高級参謀であり、数多くの民間人虐殺に指揮的役割を果たした辻に対してはイギリスが戦犯容疑で追及を行うことが自明であったため、逃亡を図ったもの。方面軍幕僚内でもこの決定に「なぜ辻を逃がすのか」と不満を持つものもいたが、中村司令官はイギリスの問い合わせに対して「辻は敗戦の責任を感じ自殺するため離脱した。山中において一人命を断ったとみられる」と虚偽の説明をおこなった。ここにも辻の特徴が現れる。つまり弁が立つため、その勢いと思想信条が琴線に触れる特定の上司には可愛がられるが、目立った動きをしたり、特定多数の歓心を得るためであることが明瞭なその行動が自分に不利になる立場の同僚からは恨まれる。
辻は青木憲信と名乗って日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏した。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得たイギリスが捜索を強化すると、辻はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて日中平和の為働きたいと大見得を切り、責任者は「この男役立つかもしれない」と利用することにする。中国国民党勢力の援助で11月に仏印ヴィェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、さらにここから飛行機で重慶へと向かった。
中国では終戦時連合国サイドであった国民党政権に匿われ、しかも国民党政権勤務という肩書きを与えられた。これは蔣介石の特務機関である軍統(軍事委員会調査統計局)のボスだった、戴笠の家族を過去に助けた経緯から、国民党政権が辻に親近感をもっていたため。また蔣介石自身も、蔣の母が病死した際の慰霊祭を辻が以前におこなったことから辻に非常な好意をもっていた。このあたりが「ジジ殺し」たる所以であろう。しかし戴笠将軍が戦死、中国国内では終戦後急速に勢いを増してきた共産党勢力が、国民党勢力を駆逐。国民党は勢力内の腐敗や汚職から、人々の支持を失っていく。国共内戦が共産党に有利になり、辻は中国にとどまることに危機を感じ、1948年に上海経由で日本に帰国し、戦犯で訴追されるのを避けて国内に潜伏することにする。裏切った戦友から逃れ、戦犯としてGHQからの追求を避けるため、寺院や右翼の大物に匿われたり、偽名で炭鉱労働者をしたりと国内を転々とした。辻は帰国直後の1949年夏より、1950年1月まで奥多摩で知り合いの援助を受けながら隠遁生活を送り、この『潜行三千里』を書いた。
辻は青木憲信と名乗って日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏した。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得たイギリスが捜索を強化すると、辻はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて日中平和の為働きたいと大見得を切り、責任者は「この男役立つかもしれない」と利用することにする。中国国民党勢力の援助で11月に仏印ヴィェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、さらにここから飛行機で重慶へと向かった。
中国では終戦時連合国サイドであった国民党政権に匿われ、しかも国民党政権勤務という肩書きを与えられた。これは蔣介石の特務機関である軍統(軍事委員会調査統計局)のボスだった、戴笠の家族を過去に助けた経緯から、国民党政権が辻に親近感をもっていたため。また蔣介石自身も、蔣の母が病死した際の慰霊祭を辻が以前におこなったことから辻に非常な好意をもっていた。このあたりが「ジジ殺し」たる所以であろう。しかし戴笠将軍が戦死、中国国内では終戦後急速に勢いを増してきた共産党勢力が、国民党勢力を駆逐。国民党は勢力内の腐敗や汚職から、人々の支持を失っていく。国共内戦が共産党に有利になり、辻は中国にとどまることに危機を感じ、1948年に上海経由で日本に帰国し、戦犯で訴追されるのを避けて国内に潜伏することにする。裏切った戦友から逃れ、戦犯としてGHQからの追求を避けるため、寺院や右翼の大物に匿われたり、偽名で炭鉱労働者をしたりと国内を転々とした。辻は帰国直後の1949年夏より、1950年1月まで奥多摩で知り合いの援助を受けながら隠遁生活を送り、この『潜行三千里』を書いた。
本書の最後に、辻による「我等は何故負けたのか」という一文が掲載されている。それによれば、1.国会機能が軍部独裁により無力化され独走を許したこと。2.官僚機構の機能不全。3.外交施策の誤り。4.科学水準と工業力薄弱。5.国内自給の不可能。6.陸海軍対立。7.天佑神助思想。8.世界情勢を客観的に把握し得ない軍部参謀本部戦略の過ち。本書内容は以上。
会社や官僚組織にも辻のような人物がいることがあるが、そのような一見有能そうに見える組織員が、組織が向かうべき大きな方向性を過つことがしばしばあるだろう。組織上層部が、山下奉文大将が日記にしか残せなかったような人物評価を客観的に判断できるかどうかが、その後の組織運命を分かつことがあるという実例であろう。