自分の性生活の実態を日記に残していた小林一茶、不義の子供を巡る裁定、出産と堕胎、間引きの記録、買春する男と身を売る女、生類憐れみの令から妊娠、出産管理までの幕府政策などを記録をもとに述べた一冊。
小林一茶は巡回する俳諧師だった。江戸や旅した各地の事件を記録しておくことは重要であり、別の土地に行ったときには格好の話のネタとなる。他地方における男女の営みのお話については、どの地方でも興味をひいたに違いないが、自分の経験も記録に残していた。一茶が俳諧師となったのは15歳のとき。しかし継母と弟との間に遺産争いがあり、ようやく本百姓の身分を得て28歳の妻、菊を迎えたとき、一茶は52歳になっていた。あわてて跡継ぎをもうけたいと思っていたので、結果的に菊との間には三男一女をもうけたが、全て幼くして死んでしまう。そして菊も37歳で、一茶の梅毒の感染で死亡。ひょっとしたら、幼くして死んだ子どもたちにも一茶の疾病の影響があったのかもしれない。一茶は俳諧師としての旅から帰宅すると、妻の菊とは10日間で30回もの交合したと記録を残している。交合は菊の月経、妊娠中にもあり、養生訓では勧められないこととされた妊娠中、月水中の交合、夫婦以外の相手との交合も、自分の欲求を満たすためあえて行っていたことが分かる。
一茶のこのような状況は江戸時代には特別のものではなかった。若い頃の買春による梅毒感染、夜鷹や吉原、岡場所にいた女性たちも感染し、命を縮めていた。そしてそれらの病気が家庭にも持ち込まれて、寿命を縮めた。感染症予防や消毒などの知識のない時代には、子孫を残すことは大変な努力と必死の営みが必要だった。
このような時代には、藩や幕府としても生産人口の維持のための出産、育児の管理政策は重要であり、さらに出産のためにはより良い夫婦生活の営みを教育していくことも時代を経るごとに重要視されるようになる。綱吉時代の生類憐れみの令では捨て子禁止令もその第一条に登場している。元禄9年の幕府法では、妊娠、出産、流産、三歳未満の乳幼児死亡、養子などに関しては、帳面を作成して管理することを、地主、大家に求めた。藩においても幕府の政策を引き継いで、人口増加を図るため、交合、妊娠、出産、堕胎、間引き、捨て子等に関する知識と禁忌、性規範などを書き物としてまとめる必要もあった。養生訓、養生論では性生活と長寿の関係を述べ、日々の生活実践ガイドとして提供していった。農家における農業経営においても、あと継ぎの維持は重要事項であり、農民に対する意識付けも行われるようになる。「おおらか」すぎる性的生活感覚を正していくことは、江戸時代でも時間を経るごとに重要視されていった。本書内容は以上。
明治維新以降も、人々の性生活の意識は急激には変わることはなく、それが変化するのは太平洋戦争後のこと。詳しく語られ記録されることがあまりなかった庶民の性生活。今では感染症知識や消毒、疾病予防などの知識は豊富になったが、ひょっとしたら現代社会でも、江戸時代の「おおらか」意識を残している場面があるのかもしれない。