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意思による楽観のための読書日記

新説の日本史 古代から現代まで 河内春人、亀田俊和、矢部健太郎、高尾善希、町田明広、舟橋正真

古代から現代までの日本史における疑問点を新たに説き起こした一冊。6人の歴史学者が解説している。

1.宋書によると倭の五王は、讃・珍・済・興・武の五人。記紀におけるどの天皇に比定できるかという議論だが、結論は「できない」というもの。記紀が記述する五世紀の「天皇」は、実在が確認できておらず、その親子関係、兄弟関係も特定できないのが実態。そこに無理やり呼び名の一文字を当てはめたり、想像したりで対応付けることに無理がある、という解説。そもそもその5世紀の時点で、大和政権からの大王が倭国を代表していたのかどうかも不明。

2.学生時代には「薬子の変」は藤原薬子がおこしたと習ったが、実態は平城上皇の変だった。平城上皇が寵愛した薬子は、上皇への情報伝達の役目を持ち、恣意的な情報操作を行える立場にあったため、首謀者だと考えられていたが、近年は平城自身が首謀者だったと考えられている。薬子の娘を妃とするはずの平城天皇が、その母親のほうが気に入ってしまったのが遠因ではあるものの、そもそも上皇と天皇の権力二重化に問題があった。上皇と天皇が本当の親子、孫の場合とそれ以外では上手くいくかどうかの結果が異なるケースが有る。皇太弟が天皇を継いだ平城天皇から嵯峨天皇がこのケースで、律令制度の運用上の問題でもあった。

3.「国風文化」は存在したのか。9世紀前半までは遣唐使の影響もあり、唐風文化が主流だったが、894年に遣唐使は廃止され、その後摂関政治が盛んになる10世紀-11世紀に盛んになった日本独自の文化を「国風文化」と呼ぶ。かな文字、浄土教、寝殿造り、蒔絵、螺鈿、古今和歌集、竹取物語、源氏物語、土佐日記、枕草子、というところ。しかしこの時期にも、貴族の男性の間では漢文、漢字が主流だった。御堂関白記、小右記、権記など男手になる書物は漢文である。唐物とは、麝香、沈、紫檀、蘇芳、緑青、豹虎皮、藤茶碗、瑪瑙帯、瑪瑙壺、綾、錦、呉竹などは当時の貴族文化を支える原材料だった。遣唐使という国家が管理する貿易は廃止されたが、民間交流は続いた。しかし、海賊の横行や治安悪化があり、手に入りにくくなった唐物を真似た和物を作り出した、というのが国風文化の源。そもそも東アジアや朝鮮半島との交流も盛んになり、唐物以外の国際的文化も多く流入し始めたのがこの時期だった。

4. 承久の乱の目的は鎌倉幕府の打倒、というよりも、西国勢力による東国勢力に対する巻き返しが当初の主眼で、北条氏を亡き者にして倒幕まで持ち込むという意図は後鳥羽上皇にあったのだろうか、という問題提起。後の後醍醐天皇による建武の新政のように、朝廷側が一時的に勝利したとしても、その後、武士たちの勢いを抑えきれなかったのかもしれない。新政権のビジョンを持っての北条義時討伐の院宣だったのか、という疑問は残る。

5.足利尊氏、足利直義兄弟の争いに、高師直が一枚加わって、内乱にまで発展したのが観応の擾乱。尊氏の実子であった足利直冬は直義の養子となっていたが、尊氏が九州にいた直冬討伐に向かい、それに対抗した直義との戦いになる。その戦いのプロセスで、尊氏の子飼いだった高師直が惨殺され、直義側の
勝利となった。その後、尊氏と直義は観応の擾乱以前の状態に戻ることに合意。しかし、尊氏が南朝と手を組むことで直義と対立、直義は鎌倉で討伐される。しかし、直冬が南朝と手を組んだことで尊氏と対立、その後尊氏は死亡、直冬も勢力を弱めて、ここまでが観応の擾乱。尊氏、高師直に対抗しようとした直義、直冬の争いに、南北朝の争いが加わり、敵味方が入れ替わるなどして、一度聞いた程度では理解できないほどの複雑さ。観応の擾乱の原因は直冬の処遇問題だったのかもしれない。戦い長期化の原因は、所領安堵、恩賞の配分問題が武士の間で不満となると、敵味方を入れ替えてしまうこと。恩賞を上手に配分できることが為政者にとっては最重要事であった。

6.応仁の乱は、細川勝元と山名宗全の勢力争いに、畠山、斯波という有力大名の跡目争いが絡み、8代将軍義政の後継者を誰にするかで、日野富子が我が子義尚を将軍とすべく暗躍した、というもの。畠山氏の本拠地は河内で、隣国の大和に根拠を持つ興福寺との勢力争いが歴史的には続いてきていた。そこに、関東管領、鎌倉公方との抗争が加わり、敵味方が入れ替わりながら、戦いは長期化した。主な原因は将軍の後継者争い、という単純なものではなく、各地の所領をどのように確保し、広げていくか、そのために誰についたら有利になるかという、各地の武士や守護大名勢力の思惑が渦巻いていた。

7.戦国大名は誰でもが「上洛」を目指してはいなかった。そもそも、領地の場所により上洛の困難度合いが異なる。将軍による上洛要請を受けての上洛は、多くの戦国大名が行っていたが、信長が義昭を推戴して上洛を果たし、天下を取ったことから、「上洛」が天下取りの条件のように捉えられてきた経緯がある。

8. 豊臣秀吉は甥の秀次に切腹を命じていなかったが、謀反の企みがあったと疑いをかけられた秀次は、無実を証明するため抗議の自害をした。息子の秀頼に天下を継承させるために、甥に切腹を命じた、という非難が寄せられるのを嫌った秀吉は、本当に謀反があったと公表し、妻子の処刑も命じた。秀吉の高野山への蟄居命令に従っていれば、そこまでの処分にはなっていなかったはず。

9.関ケ原合戦が天下分け目の戦いというのは、徳川幕府成立の物語をより劇的なものにするための後付ストーリー。実態は、豊臣政権の内紛だった。

10.「御江戸」は今や京に代わり中心都市となった江戸の町を象徴する呼び方であり、「大江戸」は経済的な発展により、より大規模な都市開発が進む江戸を表現する言い方だった。

11.江戸時代の「士農工商」は身分ではなく、職業の区分。武士には兵役の義務があり、町人、農民には納税と年貢が課せられていた。どちらかといえばこれが門地であり、身分を表す。

12.薩長同盟とは、当初は木戸孝允と小松帯刀が合意した6条からなる約束事で、その盟約を期に、薩長両藩の人的交流が始まった。当初は決して軍事同盟ではなかった。

13.日米修好通商条約は裁判権、関税が片務的だったと言われるが、アメリカに行く日本人は殆どおらず、関税率は20%だったことを考えると、言われているほどには不平等ではなかった。

14.日露戦争に先立つ1902年に締結されていた日英同盟により、日本はロシア艦隊の情報をかなり詳細に手に入れていたが、ロシア側は日本を侮り、司令官の名前さえ知っていなかった。日露戦争で日本は情報戦に勝利したといえる。

15.昭和16年の御前会議における陸海軍の議論は、開戦責任や結果的な戦争の責任など、お互いの責任回避であり、最終判断を総理に委ねる形で、決着を図るような組織の論理と責任のたらい回しだった。

16.昭和天皇は、戦後の新憲法下でも、戦前と同様内閣からの内奏を受け、そうしたプロセスで米ソ対立、沖縄における米軍基地の存在、などについて意見を表明していた。結果にどの程度の影響力を持ったかは不明だが、戦後も政治・外交に影響力を持っていたとも考えられる。
本書内容は以上。

 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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