伊勢と出雲には神宮と大社があり、それぞれに古代史の一部を垣間見せてくれる痕跡があるはず、と現地を訪れて、現地の人の話を聞き、現場を検証してみた、という一冊。検証の前提は、2世紀から7世紀の日本列島では、従来からの狩猟採集民に加えて、稲作、灌漑、酒造、養蚕、機織り、石積み、支石墓、造船、製鉄、鉄器、文字、天文学、計算、そして仏教などの文化と技術を持った渡来人が大陸、朝鮮半島から移住してきていた。秦氏、東漢氏、西文氏、王仁氏、加茂氏、など、移住は散発的だが重層的で、数百年をかけて狩猟民の人口を凌駕する稲作農耕民が列島で優位性を持つに至る。特に製鉄の技術は、武力行使や農耕技術に強い影響があり、鉄鉱石の産出地と製鉄技術者確保は、この時代の最重要課題だった。その大きな流れが、律令制を列島に持ち込んだ大和政権により編纂された記紀に記された天孫降臨神話、国譲り神話、天之日矛、都怒我阿羅斯等、倭健命と倭姫の物語であり、伊勢神宮と出雲大社にまつわる言い伝えである。
古墳時代から大和政権成立時代の大和の豪族たちには、大王家に加え、蘇我氏、物部氏、平群氏、三輪氏、大伴氏、葛城氏などがいたが、百済系、新羅系、伽倻系、そして大陸系などの出身地や血縁、得意分野と技術、そして宗教傾向などにより勢力を競った。推古朝から乙巳の変、大化の改新、壬申の乱、律令制度と6-7世紀の動きは、朝鮮半島での新羅、百済、高句麗、隋と唐の勢力地図と深い関連を持っていた。白村江の戦いまでは朝鮮半島での鉄滓の入手権益を維持していたが、その後の新羅による半島統一と百済滅亡で、百済を後押しした大和政権と新羅との関係は悪化。大和政権による唐と新羅への警戒感が最高潮に達した時代の遺構が大社と神宮だったとも言える。列島内では、製鉄技術者をはじめとした渡来人による移住活動は、鉄資源確保の動きと重なり、各地の地名、氏族名、神社、古墳などにその痕跡を留める。出雲は新羅ー伽倻文化の入り口であり、伊勢は大和政権のための代表的な信仰の場所だった。
「韓(カラ、カヤ)」「新羅(シラキ、シラギ)」は多くの場所で古い地名として残っているが、多くの場所でその由来が不明になり、新羅の痕跡を消そうとしてきた形跡が見られるという。皇大神宮である伊勢神宮の近くにも韓神山、韓神神社などがあり、多くの新羅系土器と古墳がある。地名の「コソ」は聖地、社を意味する古代朝鮮語であり、四日市の小許曽(オコソ)神社、玉城の小社(おごそ)神社、村主(すぐり)氏、村社(ムラコソ)氏、村越氏などの名字が多いのも特徴。渡来人たちは都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の神話にあるように、但馬、敦賀、近江、山城、そして磁鉄鉱と水銀を産する伊賀、伊勢への経路を辿ってきたのかもしれない。神宮創設の神話にある倭姫と倭健命の辿った経路は、鉄鉱石を求めて移り住んだ渡来人の経路と重なる。大神宮司の中臣氏、その祖ともいわれる荒木田氏は、ともに渡来系であり、中臣氏は百済王の子孫であり、荒木田氏は安羅伽倻(アラカヤ)から来た安羅来氏と考えられる。造船技術をもった猪名部氏は、その名を桑名の員弁川に残す。造船と鉄器は切っても切り離せない関係であり、兵庫の猪名川から伊勢の員弁郡に移り住んだ。この地には造船に必要な木材と鉄があったことがその要因。
出雲の神々である、素戔嗚命、大己貴命、事代主神、五十猛命を祀る神社は日本全国にあるが、特に東国に多くある。出雲族の東漸には、出雲から越、信濃、上野、下野を経て北武蔵、そして信濃から甲斐を経て南武蔵へ入るルート、さらには大和から伊賀、伊勢、駿河、下総へと至るルートがあった。皇大神宮がある伊勢は、ルートの途上にあるためか、意外に出雲系神社は多く、伊勢・伊賀あわせて257ある式内社のうち、40近くが出雲系の神々を祀っている。大和政権中枢に近い三輪・飛鳥地方にも大己貴命を祀る三輪神社をはじめ出雲系神社が多く、大和政権が勢力を確定するまでは、出雲族が大和平野に浸透していたことを示す。出雲族東漸ルートには健御名方命を祀る諏訪大社上社、上野には金鑚神社などがあり、出雲族は出雲信仰とともに鉄資源を求めて各ルートを開拓していった。たたら製鉄の「タタラ」自体が、多々羅原、多々羅邑、多々羅城、多々羅公などという地名、場所を示す古代朝鮮語である。素戔嗚命と五十猛命が居たという新羅のソシモリは牛頭山、鉄の山を意味し、韓の国で製鉄を身につけた鍛冶集団が出雲の国でたたら製鉄を始めたことを意味する。本書内容は以上。
以前読んだ金達寿の「歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮」、鳥越憲三郎の「古代朝鮮と倭族」、岡谷公二の「神社の起源と古代朝鮮」、瀧音能之の「伊勢神宮と出雲大社」などにも製鉄と渡来人の足跡が記されていた。稲作、というよりも製鉄がキーワード。