侘び茶、村田珠光が始めて体系化させたのが千利休で、本名は与四郎、法号が宗易。表千家、裏千家、武者小路千家の創始者。千利休は秀吉に切腹を命じられて堺で死んだ、と思っていたが、そのことを示す一次資料はなく、政所に助命を懇願され、細川三斎に守られ、黒田官兵衛に付き従って晩年を九州に過ごした、という説を各種資料より証明していくという一書。松浦名護屋城では秀吉に茶を点てたり、伏見城の設計アイデアを秀吉に進呈したりしたという。そのことをできるだけ同時代の一次資料よりあぶり出している。
切腹はしていない、という一次資料はないが、切腹していたとしたらこういう記述、書きっぷりにはならないはず、という書状が複数示されている。公家の日記、晴豊記、時慶記、鈴木新兵衛の書状、多聞院日記、北野社家日記がそれら一次資料。
利休が生きていたと思わせる資料は、侍女宰相宛秀吉書状、細川三斎が利休に与えた隠居領300石、前田玄以宛秀吉書状、細川三斎の主張、石州300箇条の記事である。
利休が切腹したというのは、後年、利休の茶の湯の流れをくんでいた江岑宗左が、徳川御三家のひとつ、紀州徳川家に提出した「千利休由緒書」での記述から導かれている。その後、元禄期に「南方録」により千利休が侘び茶の体系を確立したという利休像が成立。利休=侘び茶=切腹、ということが、茶聖、茶道の真髄などの利休の神格化とともに既成事実化されたという。本書内容は以上。
一次資料を丹念に手繰っていき、そこにないものを読み取るという作業には大変な労力が必要であること想像できる。本書中、利休は堺の商人であり、茶の湯を宇治茶のビジネスに役立てていたことが記述されている。特に、秀吉の茶頭として上林家を取り立てるよう秀吉に働きかけていたと。天正年間までは宇治の茶商としては森茶園が筆頭であったが、利休の肝いりで上林が主となり、森が脇となるよう意図的に働きかけたとある。秀吉の力をビジネスに政治利用していた事がわかる。こうした商売人としての無理筋が、ある時秀吉の「勘気を被る」結果になったのかもしれない。利休が侘び茶の真髄とか茶聖というのは、茶道をビジネス化して商売化したいという後年の作り話だという本書内容、うなずける部分が多い。