2016年の新聞連載小説で、2019年に福山雅治と石田ゆり子主演で映画化され、新聞小説で話題になった恋愛小説。冒頭の序文で書かれている通り、主人公のギタリスト蒔野聡史にはモデル、というより作者の主人公のイメージがある。後日、それは福田進一だと明かされている。蒔野は18歳のときにパリ国際ギター・コンクールで優勝したという経歴。恋愛相手である小峰洋子はRFPという通信社の記者であり、イラクに駐在するジャーナリストという設定。小説ストーリーを知っている読者からは、エンディングが余韻をもっているので続編が期待されているかもしれない。しかし、本物語は小説通り、出逢いから5年半後のNYセントラルパークでの4回目になる再会、ここで終わるべきであろう。以下、ネタバレなのでご承知願いたい。
二人は2006年、蒔野のデビュー20周年記念コンサートでの二次会で、友人の紹介で初めて出会う。いや本当は18歳のパリでのコンクールの場に洋子は偶然いた。二度目の出会いの時、蒔野38歳、洋子40歳であった。洋子は長崎生まれで日本人の母とユーゴスラビア生まれで著名な映画監督であるソリッチの間に生まれた。ソリッチは「幸福の硬貨」という印象的なギターによる映画音楽とともに世に知られており、蒔野も知っていた。ソリッチと洋子の母は随分昔に離婚していて、ソリッチと洋子とは長く会っていないという。パリで育ちの日本人記者として世界中を職場にする洋子には、アメリカ人の経済学者リチャードという婚約者がいた。しかし初対面の蒔野に強く惹かれるものを感じた。それは蒔野も同じ思いだった。二人は連絡先を交換して分かれるが、タクシーの窓越しに見つめ合った眼差しを二人は深くお互いの心に刻んだ。
パリに帰った洋子は蒔野のCDを手に取材先のバグダッドに赴き、ホテルでのテロの巻き添えに遭うがギリギリのところで一命を取り留める。パリに戻った洋子はバグダッドでの恐怖を蒔野とのスカイプによる会話で抑え込む。蒔野は洋子と出会った夜のコンサート以来、スランプに陥る。なんとか抜け出したいと焦るが、原因がわからない、洋子なのか、それも分からない。蒔野のマネージャを勤めるのは三谷早苗、蒔野より8歳ほども年下で、マネージャーとしてはしっかりしていて、何より蒔野のファンであった。早苗は蒔野の心が洋子にあることを感じていたが、口には出さない。早苗は洋子にはかなわない、しかし蒔野に必要なのは自分のように蒔野を支え続けられる人間だと思い続けていた。蒔野はそんな早苗の心の中を理解できず、しかし信頼できるマネージャであると信じ込んでいた。
蒔野と洋子は何度もスカイプでの会話を繰り返し、互いの思いは募る。蒔野のパリとスペインでのコンサートの行き帰りに、洋子と再会することを約束する。再会の時を心待ちにする二人、しかし蒔野がパリに着いた時、バグダッドからスウェーデンに亡命しようとしてドゴール空港で足止めになった女性から洋子に連絡が入る。バグダッド取材のときに姉のように自分を慕ってくれていた若いジャリーラ。両親をイラクに置いたまま亡命を決意したが、ニセのパスポートがバレて、身元保証人が居なければ送還されてしまうという。洋子は蒔野との再会を遅らせてでもジャリーラを引き取りに空港へ向かいべきと判断した。パリでの蒔野のコンサートでは、蒔野は混乱していて「楽譜が飛ぶ」、という大失態を演じてしまう。プロなのに、うまく誤魔化すという事もできないほどに混乱していた。何度も弾いた曲で寝ていても弾けるはずだった。
蒔野はスペインでのコンサートのあと、再度パリに立ち寄り、洋子のアパルトマンを尋ねる。そこにはジャリーラと洋子が待っていた。庇護を必要とするジャリーラを挟んでの二人の関係は不思議と心地よかった。ジャリーラに弾いてあげたバッハは我ながら名演奏だった。洋子とパリで一緒に過ごしたのは一晩、しかしうなされ続けるジャリーラの存在があり、蒔野は自分の気持を告白し深いキスを交わしただけで、その先には進めなかった。それでも二人は満足していた。次に会えるときには、と期待を膨らませた。しかし、洋子のバグダッドでの恐怖体験は、月日の経過とともにPTSDとなって現れてきた。メトロでイスラム系の若者がいるだけで動悸がして電車に乗り続けることができなくなっていた。婚約者のリチャードはそんな洋子を心配し、早くNYCでの新婚生活をしようと、RFP勤務のNYCへの転勤の時を待っていた。洋子の心は揺れていた。リチャードとの結婚は約束済み、リチャードの姉のクレアや母親とも気が合うので、経済的にも人間的にも問題のない結婚のはずだったのに、蒔野への思いは募っていた。リチャードには、好きな人ができてしまった、あなたとは結婚できないと告げる。リチャードは必死の慰留を続けるが、洋子の決意は固かった。蒔野とは、今度はスカイプ越しではなく東京で会って、今は故郷の長崎にいる洋子の母にもあって貰う予定だった。
洋子が東京に到着した夜、再び運命の歯車が噛み合わない事件が起きる。蒔野の恩師、祖父江が脳梗塞で倒れ入院したという。祖父江の娘の奏は子育て中、手伝いが必要である。蒔野は急いでタクシーに飛び乗り祖父江の入院先に向かうが、慌てていて携帯電話をタクシーの中で紛失する。緊急連絡先はすべて携帯の中にある。蒔野は友人と食事中だというマネージャーの三谷早苗に連絡、自分は祖父江の看病があるので、なんとかしてなくした携帯電話を見つけて、洋子に連絡して事情を説明してほしいと依頼する。早苗と洋子は蒔野との最初の出会いのコンサート二次会で顔を合わせているので知っているはずだと。携帯電話を見つけた早苗は、蒔野と洋子を逢わせない絶好の機会だと思いこむ。なんということか、洋子に「あなたには何も悪いところはない。ただ洋子さんとの関係が始まってからは自分の音楽を見失ってしまった、別れてほしい」とメールを送信してしまう。送信済みメールを消去した早苗は、故意ではないと言いながらも、蒔野の携帯電話を水に落として使用不能にする。
事情が理解できない洋子はひどいPTSDに見舞われる気がする。そしてその状況を知らない蒔野、二人はその後PC経由でのメールを交換するが、その内容はすれ違い、東京での出会いをフイにして、長崎にも同行できず、会えないまま洋子は東京を離れる。偽装メールがバレてしまうことを恐れる早苗であったが、時間は過ぎ去り、二人の別離が本当のことになると、罪悪感が薄れ、今度こそ自分と蒔野が結ばれるときを期待する。東京でのすれ違いから2週間後、洋子から短いメールが蒔野に届く。リチャードとの結婚を通知する内容だった。
2年後、蒔野は早苗と結婚、早苗のお腹には赤ちゃんが宿る。リチャードとの結婚生活ではケンという男の子を授かっていた洋子だが、リチャードはヘレンという女性と不倫していることを知る。リチャードの研究内容はサブプライムローンをAAA格付けにできる理論付に活用されているが、そのことに罪悪感は無いのかとリチャードを責めることになる洋子。洋子は2年間の結婚生活に終止符を打つ。東京に戻った洋子は2年ぶりに蒔野のコンサートのチケットを手に入れるが、そこでお腹の大きい早苗と偶然出会う。早苗はチケットは返してほしい、コンサートには行かないでほしいと懇願する。会話の中で、「あなたには何も悪いところはない。ただ洋子さんとの関係が始まってからは蒔野は自分の音楽を見失ってしまった」と伝える。忘れもしない蒔野からのメールの文面、洋子は「あなただったのね、あのメール」と問い詰める。早苗はすべてが露見してしまったことを知る。チケットを早苗に静かに渡した洋子は「あなたは幸せなのね」と念を押す。
出産を控えた早苗は蒔野に、洋子に偽装メールを送信したことを自白する。槙野は動揺するが、来月には出産、そこまでして自分との結婚を成し遂げようとした早苗と生まれてくる子供の存在は重い、と感じる。
洋子はカリフォルニアで父のソリッチと本当に久しぶりに、いや英語が話せなかった子供時代には父とは会話できなかった、その親子の会話としては初めて面と向かう機会を得る。そこで確かめたかったのは、なぜ母と離婚したのかということ。ソリッチは、ユーゴスラビアの複雑な事情を説明、クロアチア人としての自分、ユーゴスラビアを率いていたチトーの存在と、愛国者達との葛藤を説明する。あの頃、制作した映画の内容が原因でクロアチアの愛国者たちに命を狙われていたと。分かれることで母と娘を守りたかった、というのが理由だった。過去への疑問が氷解した洋子。過去の記憶は現在の行動により、その意味を変えられることを実感する。自分と蒔野の関係はどうか、考えを巡らせる。
2011年は東日本大震災の年だった。4月にコンサートを予定していた蒔野は迷ったが、復興を祈る、音楽の力を信じる、自分ができることは音楽、と考えてコンサートは実施、CDも出すことにする。国際組織で難民救済NGOに職を得ていた洋子は蒔野が出した新しいCDを手に入れ、その内容に感銘を受ける。匿名で蒔野の音楽活動への賛同を表明する。NYCでの蒔野の午後のコンサート、それは沈黙を破る蒔野の再デビューとも言えるマチネだった。そのコンサートに日程を確認して行けることになった洋子は、最後列の席で音楽を聞く。第一部の最後で洋子の存在に気がついた蒔野は、アンコールで、ソリッチ監督の「幸福の硬貨」を演奏、「このいいお天気、コンサートが終わったらセントラルパークで散歩でもしたい気分です」と口にする。二人はNYCセントラルパークで、最初の出会いから5年半経過して再会を果たす。物語はここまで。
ストーリーの背景には、ユーゴスラビアにおける民族浄化、イラクへの介入と難民、欧州での難民差別、サブプライムローンと経済学の果たした役割、離婚と親権ならびに子供の人権、CDからWEBへ・音楽業界の窮状、携帯とスマホ、メールとSNSの懸念、などがあり、たんなる恋愛物語に終始しない骨太のストーリーになっている。二人はそれぞれが結婚と子育てを経験し、人生のマチネとも言えるステージに差し掛かっている。お互いの立場を深く理解し、自分の中に再び燃えようとする熾火の存在も示唆される。しかし二人が再会して交わす微笑みには相手とその向こうにいるかも知れない人たちへの気遣いも忘れては居ない。今後の展開は読者に委ねられている。平野啓一郎、大した筆の力、40-60代の女性が主たるターゲット読者かと想像する。