タイトルはキャッチーだが、内容は日本における哲学・思想史ともいえるもので、日本における宗教と哲学を一気に解説してくれている。東アジアの国で、中華思想による影響を受けていない国はない。しかし、日本はその呪縛から逃れてきた歴史がある。脱中華思想、という視点から見た日本哲学・思想史である。
四世紀には伝えられてきたと言われる漢字を始めとして、六世紀頃に同時に伝えられたという儒教と仏教は、日本では異なる受け入れ方をされた。漢字はかなとの組み合わせで使われ、音読み訓読みにより大和言葉と漢語を使い分けた。仏教は日本に大いなる影響を与えたが、仏教をも日本的な宗教や思想の中に組み込み本地垂迹、神仏習合という日本独自の受け入れ方を実践してきた。日本では思想や哲学に儒教的影響を受けながらも、江戸時代になると国学として昇華し、日本独自の宗教観や価値観を作り上げてきた。中国では政治的権力を正当化する手段として使われた儒教、皇帝は天命を受けたものが国を治めるとされた。中国の皇帝が世界を支配するという中華思想、華夷秩序の考え方が、紀元前から現代まで連綿と引き継がれ、現在の習近平政権でも「一帯一路構想」ではその哲学が遺憾なく発揮されようとしている。こうした中華思想からの脱却こそが日本が進んできた道であった。
飛鳥・奈良時代には、まずは中国の政治と行政の制度を日本でも導入することが行われたが、この時代に儒教の影響は少ない。仏教は、その圧倒的な文化的厚みを崇仏論争で示し、古墳に代わり多くの仏教寺が建立された。記紀では中国の天命論、易姓革命ではなく、天子は生まれながらに天子、つまり政権交代のたびに支配者が変わるという事はない、とされた。記紀は政権正当性の証明書ではあったが、中国における政権正当性証明の方法を取り入れることなく、天皇は万世一系の天子とし、天武政権は律令制度だけを取り入れることとした。その後、公地公民制という国家による土地所有が厳しくなると、墾田永年私財法により私有地を認め、神宮寺として神社に寺を併設し、徴税の再強化を図った。しかしその後も私有地は貴族、寺社、そして地方の武力勢力により拡大され、荘園体制へとつながり、実質的な律令制の基本が崩壊していく。七世紀初頭に始まった遣隋使は、その後も遣唐使として継続的に中国の文化と情報を取り入れ続けたが、907年の唐帝国滅亡を待たずして894年には廃止され、律令制もこの頃その生命が絶たれた。
仏教は奈良の都に南都六宗として定着したが、八世紀末には仏教と寺の勢力からの離反を目して平安京遷都が行われた。ほぼ同じ頃、最澄と空海という二人の仏教界の巨人が京に現れた。空海は「三教指帰」で仏教が儒教、道教よりも優位であることを説き、衆生救済を明確にした「即身成仏」の思想を示した。最澄は大乗戒壇建立により南都六宗が保持していた権力と権威を取り上げることに成功、二人共、仏教の大衆化と簡素化の道を開いた。
その後、空也は大衆の中で布教、源信は称名念仏を唱え、念仏を唱えることで極楽往生できると説いた。さらに、法然、親鸞らは極楽往生は富裕層や善人だけではなく、貧しくとも、さらには悪人でさえも往生できると、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば往生できるとした。日蓮、一遍は教義の違いはあるが、仏教の大衆化と簡素化を進め、人間は生まれながらに仏性を備えているので往生できる、という本覚思想から、それは地上にある動植物や国土も含まれるという「草木国土悉皆成仏」という日本独自の仏教信仰を生み出す。勢力衰退を感じていた神社側は、本地垂迹思想により、日本の神々も仏の化身として、神仏習合をすすめる。その後、神々が優位だという吉田神道も登場し、脱中華思想と脱仏教で、日本への回帰を目指した。しかし民衆レベルでの仏教の優位は揺らがず、越前では一向宗徒などの大衆指導による一向一揆は、寺社・武力勢力による土地支配からの離脱を約100年間実現する。信長や家康はその家臣からも一向宗勢力に寝返るケースが出来し、仏教大衆化が政治権力にとっての一大脅威となったのである。これに徹底的に向き合ったのが織田信長、その後檀家制度により体制側へと取り込むのに成功したのは徳川家康以降の江戸時代だった。
江戸幕府は、このときまで長くお蔵入りしていた儒教を取り出し、朱子学の頭として林羅山を任命、幕府公認の官学とした。朱子学は「理気説」と「八条目」を唱える儒教の変種である。理気説とは、人間が持っている理想の価値観を「理」、人間の感情を「気」と定め、気を滅して理を実践することで理想社会を築くというもの。八条目は、外部の物事「格物」、格物を知る「致知」、この二つで世の中の仕組みを学び、意を誠にする「誠意」、心を正す「正心」、身を修める「修身」、この三つで気を滅し理に従った行動を行うことができる。この五つを実践した上で、「斉家」で家を整え、「治国」で国をきちんと治め、「平天下」で天下を安泰で平和へと導く、というもの。これらはあまりに原理主義的で空想的かつ窮屈である、孔子、孟子の教えは人間性まで犠牲にするような哲学ではない、と反旗を翻したのが伊藤仁斎。仁義礼智忠信孝悌とはすべてが人間同士の愛である、として朱子学を否定した。荻生徂徠は、儒学の古典を研究することで古文辞学を確立、朱子学は儒学を歪曲しているとし、堯舜時代確立された「礼楽刑政」、つまり礼節、音楽、刑罰、政令などの政治制度と文明こそが儒学だとした。理気論や八条目は朱子学の妄想である、とした二人は実質的に幕府の官学を全否定したことになり、幕府としては衰退明らかな朱子学を死守するため、幕府開府から190年後に「寛政異学の禁」を出す。しかし、仁斎と徂徠の学問手法が、契沖、荷田春満、そして賀茂真淵へと連なる国学成立への道を開くことになる。堯舜時代の礼楽刑政を理想とした徂徠を、ならばなぜ堯舜時代は終焉したのかと疑問を呈し否定したのが賀茂真淵。そして万葉集、記紀の研究から「漢意(からごころ)の排除こそが日本古来の正しい道、もののあわれを知る日本古道だとしたのが本居宣長。
幕末の尊王攘夷運動では、儒教思想が柱になったのは、国学よりは官学であった朱子学が武士階級になじみが深い思想だったから。しかし、倒幕の動きをその後の開国論へとつなげたのは佐久間象山の「西洋芸術・東洋道徳」の思想。テクノロジーは進んだ西洋から取り入れても、道徳心は儒学で学んだものを柱にする必要があるというもの。この思想を受け継いで、明治新政府における国民道徳形成主導者となったのが西村茂樹。明治政府は西村の「日本道徳論」と朱子学の「修身、斉家、治国、平天下」教えを「教育勅語」として打ち出した。八条目が武士階級の教養であったものが、教育勅語により日本国民の価値観であり倫理観であると定められたことに大きな意味があった。飛鳥時代には儒学をイデオロギーとしては受け入れず、幕府が朱子学を官学とした後も本居宣長が否定した日本で、「漢意」が国民道徳となり、この後、日本は破滅的な戦争へと突き進んだ。この意味を日本国民は噛みしめる必要がある。本書内容は以上。
見事なダイジェスト版の日本哲学・思想史である。脱中華の歴史、という視点でまとめられていて、ある意味理解しやすい。「教育勅語」について、その中には現代でも通じる良いことが書かれている、などという政治家がいるが、国家が忠信孝悌という国民道徳と価値観を定義することの是非、その政治家の本当に目指したいところを聞きたいものである。本書は、仏教、儒教が日本歴史で果たしてきた役割を再度噛みしめるための非常に分かりやすい教科書だと思う。