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意思による楽観のための読書日記

格差と序列の日本史 山本博文 ****

日本列島でも農耕生活が始まり、各地に豪族が起こり、ヤマトに政権が確立した頃には律令制度が整備され、中央政権への租庸調納税と官僚制度が始められた。社会における序列は官僚制度に始まり、世代を超えた格差はこの官僚制度により強化されてきた歴史がある。本書では、日本史における官僚制度を概括し、歴史上の序列と格差について考察、現代社会に存在する格差について考えてみる。

ヤマトに王権が確立する頃、大王家に続いて、臣として蘇我氏、平群氏、葛城氏、連として大伴氏、物部氏が氏族として序列化され、大王家から分かれた小氏族や地方の有力豪族が君と称され、国造を務める地方豪族が直(あたい)と呼ばれ、ランクづけられる。氏族ごとに職務を分担させる仕組みで、官僚制度とまでは言えない。その後、大化の改新から大宝律令へと制度が見直され、冠位十二階から八色の姓、そして正一位から従五位下までを殿上人、それ以下を地下人とする位階が確定してくる。この位階制は明治の時代まで続くことになり、大臣、大蔵、宮内省などの名称は平成、令和の時代までも使われる。

律令制は中国から輸入したものであり、日本では独自の官職である令外の官が多く設けられる。嵯峨天皇までは、天皇の秘書役を務めていたのは女性の内侍司であったが、薬子の変ではその内侍司が平城上皇と結託して嵯峨天皇と競う事態となり、その反省から蔵人所とその頭である2人の蔵人頭の役職を設けた。一人は武官で頭中将、もうひとりは事務官で弁官、嵯峨天皇は信頼の厚い藤原冬嗣と巨勢野足を任命する。嵯峨天皇の信頼が深かった冬嗣は藤原四家の北家で、その後は蔵人頭に任じられ、藤原北家はその役職を足がかりに摂関家となる道をひらく。

宮中人事は位階を定める叙位と官職を定める除目(じもく)とがあるが、いずれも形式的には天皇が、実質的にはその時の最高実力者の左大臣などが「一の上」として任命した。上位である三位までの公卿では、上下動の流動性が乏しかったが、中級下級貴族では流動性があり、猟官活動も盛んだった。枕草子では、四位、五位の者が冬の寒い朝に自己申告書である申文を持って宮中を歩き回るさまが描かれ、紫式部の父である藤原為時も十年ほど無職で、ようやく得たのが希望していた越前守ではなく淡路守だったことに落胆し、一条天皇に無念の申文を提出したとか。摂関家が力を持ったのは、こうした除目の権限を行使したから。光源氏の親友である頭中将は光源氏が明石で謹慎中も宰相中将に出世し、右大臣の4女と結婚。宰相とは参議の唐風の称号「唐名(からな)」であり、水戸黄門は中納言の唐名の「黄門」と呼ばれる。中世になって、山椒大夫が登場する安寿と厨子王は太夫という五位の唐名で、丹後国の有力者で人買いが、金の力で位階を買ったのだと思われる。

鎌倉時代になると武家政権では、公家社会とは別の役職で成り立っているが、頼朝や政子は自分たちや将軍の位階、役職を気にする。鎌倉幕府の将軍家の家政を司る公文所も、頼朝が右近衛大将になり三位の位階を叙位されたため政所と称する、つまり公家の流儀にならったということ。1185年に朝廷から地方国司、地頭任命権を朝廷からもぎ取り、このときから幕府が成立したというのが最近の解釈。国司を守る役割が守護、荘園ごとの税を取り立てるのが地頭となるが、徐々に国司の権限を守護が奪い、守護は室町時代になると幕府からも独立していく。しかし、その守護も京での仕事が義務化され、地方行政の代行者として守護代を設置し、地方の実権を地侍である守護代や国人が握るようになる。応仁・文明の乱を境にして、守護も地方に帰り、中央幕府の力が衰退、戦国の世を迎え、信長・秀吉の全国統一・刀狩り・検地・納税制度の全国展開により、近世となる。

江戸幕府の仕組みは当初はシンプル、綱吉の時代にはシステム化が進み、世襲化、身分の固定化、家職化が進む。官位と序列は、将軍が右大臣、内大臣で従一位、従二位。尾張・紀伊徳川家が大納言で正三位、水戸徳川家が中納言で従三位、加賀前田家が参議で正四位、上位の国主が中将で従四位上、中位国主が少将で従四位下、下位の国主や老中が侍従で従四位下、一般の大名が四品で要職の旗本が諸大夫で従五位下。旗本と御家人の差は大きく、旗本は能力や働きにより昇進が可能だったが、御家人では昇進は望めず代々同じ職務に従事した。260年の長きにわたり続いた硬直化した幕府の官僚システムが崩壊するのは、ペリー来航に代表される幕末・維新への動きがキッカケ。外国からの圧力がなければ、その大変化もいつ起きたかはわからない。明治維新と太平洋戦争敗戦は同じくらいの大変革を日本にもたらした。維新では武士の身分、貴族という身分がなくなり、敗戦では農地開放、財閥解体で、大土地所有者、大財閥の富が庶民にも分散された。本書内容は以上。

現在、裕福な家庭の子息は十分な教育機会が与えられるため、正社員や新規チャレンジの機会も与えられるが、貧しい家庭の子供達にはそのチャンスも少ない、というのが最近の報道。ピケティが「21世紀の資本」で唱える「資産の差は勤労所得で埋められない」という話は本当だろうか。これも律令時代から江戸幕府までの超固定化された官僚制度や殿上人と地下人、大名と農民、上士と下士ほどの差はなく、制度から見れば身分は平等、チャンスも本人努力次第で可能性は開けるのではないか。特に、現代日本では欧米程の資本格差、教育などの機会差があるとは感じられないと思うがどうだろう。それとも、格差解消のためには、今後の黒船や戦争というほどの大変革を期待しなければならないとでも言うのだろうか。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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