意思による楽観のための読書日記

駅名で読む江戸・東京 大石学 ***

1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いて400年余り、江戸城、隅田川河口周辺の下町、神田、品川、赤坂、溜池、上野、そして山の手に広がり、西の多摩地方に広がる東京、歴史を踏まえ地名について解説する。

オランダ人の航海士、ヤン・ヨーステンはリーフデ号に乗り1600年豊後に到着、家康に信任され日比谷堀端の現在の丸の内に屋敷を与えられた、この屋敷地がヤン・ヨーステンの音から八重洲と呼ばれるようになった。1929年の町名変更の際にこの地は丸の内となり、外堀埋め立てを経て駅の反対側が八重洲と呼ばれるようになった。

柳沢吉保は1688年に側用人に就任、その後川越城主として7万2千石の老中格となった。綱吉は柳沢吉保に駒込の土地4万9千坪を与え、柳沢吉保は六義園を建造した。六義園とは、中国詩経の分類法で「風、雅、頌、賦、比、興」に由来、風は諸国の民謡、雅は朝廷の正楽、頌は宗廟における祭りの楽歌、賦は感想、比は比喩、興は他のことを述べて本題に入ること、をそれぞれ指すという。

日本橋は元は二本橋で、その後、慶長の江戸大普請があった頃から日本橋と呼ばれるようになった。また日本全国へ向けた5つの街道の第一歩が日本橋と定められたことも大きく影響していた。橋の広さは元和の再架の時には69メートルで江戸最大の橋であったことも日本橋、と呼ばれる理由となった。

後楽園は中国の明の儒学者朱舜水の意見を取り入れ、「士は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」に基づいているという。神田用水の水を引き入れた庭の池は回遊式築山泉水庭園であり、神田川の水は邸内を通り、懸樋で神田川を越えて暗渠に流れていた。

紫衣事件が起きた時、後水尾天皇はこれを不満として幕府との緊張が高まった。こうした事態を収拾するために大御所秀忠に支持で後の春日局であるお福は京都に赴き、秀忠の娘で中宮和子に伺候し武家伝奏の三条西実条の妹の資格で天皇に拝謁、春日の局号を与えられた。お福は幕府の一侍女であり、公家の反発を招いたが、紫衣事件とあわせて幕府の力と朝廷とのバランスが変わってきたことを象徴する事件であった。この後、後水尾天皇は女帝の明正天皇に譲位した。お福が与えられた屋敷があったのが春日である。

越中島は家康にゆかりの深い久能山東照宮の警護を命ぜられていた榊原越中守で、この洲に屋敷を構えていた。しかし毎年の洪水にさらされ屋敷を返上、その後は人々が徐々に住み着いたという。

その他、代田橋はダイタボッチというツングース系オロッコ語に由来し、大きな人の穴居という説話から来ているという。大太法師とも書く。成城学園は「哲夫成城(てっぷしろをなす)」という詩経の経典からとられている。多摩川を挟んだ両岸には同じ地名が存在する地域が多い。石田、押立、布田、和泉、二子、宇奈根、瀬田、上野毛、下野毛、等々力、丸子などである。多摩川の流路がたびたび変わることから一つの集落が両岸に分断されたためと言われる。羽村は羽衣の里、端の村から転じて羽村と言われた。ちょうど江戸の町に引かれる用水の取水口があった場所でもある。雑学的な知識がいっぱいである。昔は亀無だった亀有、幕府御用の警備隊がいた御徒町、ビールの名称が駅名になった恵比寿、徳富蘆花が愛した町が芦花公園などなどもある。



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