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意思による楽観のための読書日記

竹林はるか遠く ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著 ****

1986年にアメリカにて刊行、中学校教科書に教材として採択された11歳の少女の視点による、太平洋戦争敗戦直後朝鮮半島からの引き揚げの物語。著者は1933年、青森で生まれた川嶋擁子、生後6か月で南満州鉄道に勤める父に連れられ、家族とともに朝鮮北部の羅南、現在の清津に移住。1945年敗戦間際に母、16歳の姉好とともにと共に羅南を脱出、朝鮮半島を縦断する決死行で日本への引き揚げをするという体験をした。帰国後、京都市内の女学校に入学、働きながら学業を続け卒業し大学で英文学を学んだ。卒業後は米軍基地で働きアメリカ人と結婚し渡米。現在ケープコッドに住んでいる。本書は英語により書かれて1986年米国で発刊され、日本語版が平成25年日本で日本語により発刊された。

1945年7月29日の真夜中に、「ソ連兵が攻めてくる」と言われ、家族三人で思い出深い竹林のある家に別れを告げて、勤労奉仕に出かけている兄の淑世(しげよ)に「京城駅で待つ」と置手紙をして逃げ出した。日本軍は潰走し、抗日戦争として戦ってきたパルチザンたちは執拗に日本人を追いかけていた。同じような運命の日本人家族の多くが殺されたり、持ち物を奪われたりしたが、母や姉の好の機転で川嶋家三人は間一髪で命をつなげていた。三人の家族は、その後元山、京城(今のソウル)、釜山経由で数か月かけて博多港に着いたが、兄の淑世とは会えないままだった。

その間、多くの日本人や朝鮮人との出会いと別れがあったが、日本人同士でも皆が生き残るのに必死で意地悪をされ、朝鮮人にも共産軍として日本人を討伐する人たちや、隠れている日本人を賞金目当てに探し回る人、貴重品を取り上げる人、女性として見つかると強姦する人、そして自分の危険を顧みずに、見ず知らずの川嶋家の家族を助けてくれる人たちがいた。淑世は友人たちと勤労奉仕先で朝鮮人の共産軍に勤務先を襲撃された。仲間が殺される中、二人の友人たちと一緒に荷物をまとめて自宅に向けて逃げ出した淑世だったが、自宅は盗賊に荒らされたような有様であったが、母の「京城駅で待つ」という手紙を頼りに一人、南に向かった。淑世もパルチザンによる日本人狩りに遭遇しながらも命からがら京城、元山、そして釜山港にたどり着くが、家族とは会えずじまいだった。

博多から京都までたどり着いていた母と姉、そして擁子は、京都の町が空襲にあわず焼けていないことから、そこで暮らすことにするが、家がないので駅で寝泊まりする。母は朝鮮から持ち帰ってきた虎の子のお金を子供たちの入学金と授業料として二人の娘を再開していた女学校に通わせる。自分は一人故郷の青森に向かうが、実家は空襲で焼けていて両親も死亡。母は京都まで帰り着くがそこで死んでしまう。残された二人はお金を工面して母の死体を焼き場に運んでもらい焼いてもらう。しかし母が残してくれた風呂敷は二重になっていて、中に隠されていたお金は3万6千円。当時としては大金だったが残された二人の娘たちは授業料として使うほかは、そのお金には手を付けず、靴磨きや裁縫などで食いつなぐ。

駅で知り合った親切な方が二人の境遇を知り、二人は倉庫として使っていた場所を貸してもらい、朝鮮時代に知り合った日本兵にも助けられる。なんとかその年の年末まで生き延びた二人。擁子は級友にいじめられながらも、作文で賞を取り賞金を稼いだりもした。新聞で舞鶴に引き揚げ船が毎週来ることを知り、好と二人で毎週舞鶴に通い兄の帰りを待つ日々が続いた。3月になり兄の淑世が苦労の末京都にたどり着いた。擁子が兄の顔を見たのは8か月ぶりだった。その後、全教科で最高の評価「甲」を受け女学校を卒業することができた。

本書内容は以上。感動の実体験、本書には続編もあるとのこと、ぜひ読んでみたい。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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