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意思による楽観のための読書日記

笑いをつくる 上方芸能笑いの放送史 澤田隆治 *****

筆者は「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」を手掛けたテレビプロデューサー。ちょうど朝ドラで「おちょやん」を放送しているので、読んだタイミングも良かった。以前朝ドラでやっていた吉本興行のお話と合わせて、上方お笑いのラジオ、テレビ放映歴史をたどる。大阪最初のラジオでの笑いは1925年5月というから大正14年の二代目桂三木助から始まる。

ラジオの前にはレコードによる落語が流行した時代があった。八方破れ人生の初代桂春団治には、100種類、700枚もの録音があるという。ただし、一枚につき片面3分半、一つのお話を二枚に分けて入れた。春団治はその決められた時間に絶妙に落語を収める天才だった。その春団治が最初にラジオに出演したのが昭和5年で、遅れた理由は所属していた吉本興業が専属芸人のラジオ出演を禁止したから。理由は寄席に客が来んようになるから。

この時代はまだまだ落語中心の寄席が全盛期、吉本興業だけでも、大阪には道頓堀、千日前、玉造、松屋町などに12の小屋があり、朝11時から夕方5時まで落語中心のプログラムがぎっしり組まれて満席だった。これ以外に、東京と京都も合わせると23もの出演枠がある。そこに割り込んだのが漫才、当時は萬歳と書いた。落語では春団治、笑福亭枝鶴(後の松鶴)、三遊亭圓馬、林家染丸などで、萬歳で人気を博していたのが、花菱アチャコ・千歳屋今男、浅田家日佐丸・平和ラッパ、芦の屋雁玉・林田十郎。アチャコはそのころにエンタツと新コンビを組み「早慶戦」のネタで人気を博す。戦争が激しくなると、吉本興業は慰問で軍部に協力、荒鷲隊をもじった「笑わし隊」で一層の人気を得る。

戦後の芸能はラジオ放送で復活。劇場にこだわった吉本興業とは別に、NHK放送が「上方演芸会」を放送し、「日曜娯楽版」の三木トリロー、河井坊茶、千葉信男、三木のり平、丹下キヨ子が活躍。「モシモシアノネ、アノネ」が流行った。昭和26年には民放でも新日本放送、朝日放送なども開局、寄席からの中継「お笑い劇場」や、スタジオ収録で秋田實構成の「お笑いデパート」が始まった。NHKの「エンタツちょびひげ漫遊記」が秋田實と組んで人気を博し、アチャコは浪花千栄子とのコンビで長沖一が担当して「アチャコ青春手帖」を放送、映画も5本撮った。この頃のラジオ人気は絶大で、聴取率トップはミヤコ蝶々司会で57.5%をとった「漫才劇場」、44.8%の「浪曲ごもくめし」、41.35の「浪曲演芸会」と続く。「漫才劇場」には南都雄二、秋田Aスケ・Bスケ、夢路いとし・喜味こいし、笑福亭松之助、森光子がレギュラー陣で秋田實が作者。

テレビ放送が大阪でも始まったのが昭和31年。人気ベスト3は久松保夫の「日真名氏飛び出す」、高橋圭三の「私の秘密」、ダイマル・ラケットと楠トシエの「お笑い三人組」、8位に森光子の「びっくり捕物帖」が入っている。当時はすべて生放送なので、出演者たちはテレビとラジオ局を必死で高速移動した。それでもリハーサルは必要なので、「やりくりアパート」出演の大村崑、佐々十郎、芦屋小雁、茶川一郎などは掛け持ちの北野劇場の舞台メーキャップのままで、朝日放送スタジオでリハーサルをして劇場にそのまま戻る、などという離れ業をしていた。それは昭和33年4月にアメリカ製のVTRが導入されるまで続く。

昭和34年には読売テレビで大村崑の「頓馬天狗」で「姓は尾呂内、名は南公、トントンとんまの天狗さん」で、芦屋小雁はアホぶりとともに子どもたちの人気ものになる。12月には渋谷天外と藤山寛美の「親バカ子バカ」が始まる。寛美はアホぼん役で全国人気を得、松竹新喜劇の存在を全国に知らしめた。この頃始まった「素人名人会」は、劇場の軒下を借りて中継放送するという形を取り入れ成功。西条凡児の司会で人気番組となり、凡児のトラブルで司会をやすし・きよしに交代したのが昭和45年。やすしはその3ヶ月後に不祥事お起こし、きよし一人で引き継ぐことになり、番組は平成14年まで継続する。

昭和36年に始まったのが「スチャラカ社員」ダイマル・ラケット、川上のぼる、笑福亭松之助、白木みのる、エンタツ、藤田まこと、人見きよし、香川京子、それにミヤコ蝶々である。「てなもんや三度笠」が始まるのが昭和37年、日曜日の午後6時からで、ライバルはデパート、大鵬、プロレス、アメリカ製の番組「ローハイド」「ララミー牧場」「サンセット77」「アンタッチャブル」などだった。出演者には藤田と白木に加え、堺駿二、曾我廼家五郎八、曽我廼家明蝶、八波むと志、秋田Aスケ・Bスケ、平参平、山東昭子、星十郎、吉田義男、岸田一夫、石井均、伴淳三郎、吉本新喜劇から桑原和男、のちの岡八郎である市岡輝夫である。番組は次第に人気を得、東海道から始まったシリーズは中山道、山陽道へと続き、視聴率は関西53.6%、関東40.6%を獲得した。昭和31年の「漫才教室」に素人として出演した中学生だった後のやすしになる木村雄二は、昭和39年には白木みのるの付き人になり、松竹家庭劇の石井均の付き人だった西川きよしと「てなもんや三度笠」のリハーサルで出会う。そして、最終シリーズには若手の横山やすし・西川きよしとして出演した。「てなもんや三度笠」が生んだスターには、藤田と白木に加え、名古屋弁で売り出した南利明、レギュラーの京唄子・鳳啓助、財津一郎がいた。やすしきよしも「まんまんちゃんあん」のギャグを生み出した。

その後、昭和41年には、やすしきよしは漫才コンビとなり、一躍スターになる。「男はつらいよ」が始まったのが昭和44年、45年の大阪万博の頃から人気を得たのがドリフターズ、堺正章、三波伸介、コント55号で、大阪では「蝶々・雄二の夫婦善哉」が人気番組。そこに、きよしと笑福亭仁鶴で「ただいま恋愛中」、桂三枝と江美早苗の「新婚さんいらっしゃい」、そして「プロポーズ大作戦」「パンチでデート」などと若者を取り込んだ企画の成功が続く。「ヤングオーオー」では新人発掘が成功し、筆者がプロディースしてコメディナンバーワン、カウスボタン、笑福亭鶴光、桂文珍、桂きん枝、小染、月亭八方、月亭可朝などを売り出した。

漫才ブームが起きるのは万博から10年後。島田紳助・竜介、のりおよしお、ボンチ、今いくよくるよをやすしきよしがリーダーとなりまとめて東京に売り出した。東京では、B&B、セントルイス、ゆーとびあなどの東京漫才と競り合い、「花王名人劇場」を舞台に一大ブームとなる。本書内容はここまで。

朝ドラ内容とカブる部分があり、実際に視聴していたてなもんや三度笠の話がありと、戦後の昭和生まれの読者にとっては嬉しい内容。寛美や小雁のアホボンのモノマネを長い間、芸人の誰かしらがやっていたことも思い出す。「江戸むらさき」ののり平、大村崑の「ごはんですよ」や「オロナミンC」で笑える世代、「琴姫七変化」の松山容子が今でも残るボンカレー、浪花千栄子のオロナイン軟膏や由美かおるのホーロー看板はちょっとした田舎に行けば今でも見られるかも。浪花千栄子の本名が「南口キクノ」だと知っている人はどれほどいるだろうか。ちなみに、阪神の村山が引退する試合で花束を渡したのは浪花千栄子。朝ドラの「千代ちゃん」はこれからアチャコと出会うのだろうか、それとも寛治は泣き笑い喜劇を盛り上げてくれるのだろうか。これからもお楽しみは続く。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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