1. ちょうど私が小学生から社会人になる頃まででプロ野球をよく見ていた時期である。
2. 長島、王、野村、張本、堀内、金田、村山など巨人阪神南海阪急の世代と江川、篠塚、掛布、岡田、工藤、清原、石毛、渡辺などの西武巨人阪神世代の世代間価値観の違いが身につまされる。
3. 野球世界での日米摩擦で浮かび上がる問題点や価値観の相違が日米経済摩擦の真の原因ではないかと思えてしまう。
4. 筆者がアメリカ人でありながら日米両国の野球人を公平に記述しようとしている。
5. 筆者が野球好きである。
6. カークランド、スタンカ、ホワイト、レオン、リー、トマソン、マニュエル、バース、、、、なんと懐かしい名前ではないか。
7. 巨人中心のプロ野球は今でもほとんど変わっていない。
8. ベースボールという同じルールのスポーツが日本とアメリカという異なる文化で如何に違った種目となるか、感動的でもある。
巨人に来たガイジン助っ人たちは、マスコミによる取材攻勢に心底嫌になりながら、なんとか対応しようとしていた。また、日本でも自分が活躍すれば人気がでると信じて、なれない日本式の猛練習にも馴染もうと努力した選手もいた。巨人では長島引退後、長島が監督になっていた時代、ジョンソンやライトというガイジンがプレーしていた。日本ではスーパースターの長島が監督を勤めるチームが巨人、日本人プレーヤーたちは長島の指示に逆らうことなど思いもつかなかったが、ジョンソンやライトは自分と意見が合わなければ自説を主張した。日本人のチームメート、マスコミ、巨人ファンは「なんてわがままなやつだ、ガイジンは」となり、同じチーム内にもガイジンの味方はいなくなってしまう。シーズン中はある程度の活躍をしたジョンソンは日本シリーズで阪急に勝てなかった原因とされ2年目のシーズンを終わった時点で解雇された。ジョンソンからすれば全く納得の行かない解雇である。見返してやろうと近鉄の入団交渉をしたが、巨人から手がまわり交渉もしてもらえなくなった。ライトはもっとハチャメチャであった。そんな彼が1年以上巨人でプレーすることはなかった。その後に来たのがロイ・ホワイト、日本語を勉強し日本の野球に馴染もうと必死で努力したホワイトは日本のファンにも監督にも認められ3年の間活躍した。しかしその次に来たレジー・スミスはプライドの高いメジャーリーガーだった。監督の藤田と事あるごとに衝突、2年間で巨人を去ることになる。「わがままガイジン」に懲りた巨人が次に獲得したのがクロマティ、3年契約で60万ドルは当時のレートで1億4千万円、その額に違わぬ活躍をした。平均3割30本本塁打、86年には打率363、37ホーマー、87年は3割28ホーマーと巨人のリーグ優勝に大貢献した。監督だった王のことを尊敬するクロマティの口癖は「おれが日本でやりたいのは王のために優勝すること」であった。しかしそんなクロマティでさえ、若手の日本人プレーヤ吉村が出てくると控えに回される。雑誌の取材で本音を話すと球団から大変な叱責を受けてしまう。
日本人のプレーヤでも、一昔前の野球人にはいなかったタイプが出てくる。落合、江川、工藤、渡辺、石毛などの新人類である。彼らを筆者は日本語を話す「ガイジン」と表現する。練習を嫌がる、上下関係をあまり気にしない、言いたいことはガマンしない、年俸アップに関心が高い、球団の決めたルール(遅刻をしない、髪の毛は短く切る、いつも紳士であるetc)を守らないなど。ガイジンから見ればそうした球団のルールは宗教のように思えたのだが、日本語を話すガイジンからみても同じだったに違いない。世代間ギャップがそこにはあった。しかし落合や江川はそんな世代の中でも一匹狼であり孤立していた。日本全体が変化しているというわけではなく、突出した存在は出てきたものの、真似をする同世代の若者はいなかったのである。
西武は1980年台に最も数多く日本シリーズを制したチームだった。そのチームのオーナーは堤義明、鉄道、デパート、スーパー、不動産と数兆円の資産を持つ大資本家であり、野球よりもアイスホッケーに興味を持つビジネスマンであった。アメリカのように地方ごとのフランチャイズというよりも企業の広告塔の色彩が強い日本のプロ野球、その違いを最も際立たせるチームが読売巨人と西武ライオンズだった。いずれのチームにも天皇がいた。読売はナベツネ、堤義明と同様、彼らの前では監督も選手もコマの一つでしかなかった。
そして筆者は高校野球に熱狂する日本人たちにも言及、これはミニプロ野球とも思えるような練習の積み重ねと監督への絶対服従から成り立つ世界だった。そして応援団は黒い制服を着、女子高校生たちはチアガールになって汗まみれになり必死に応援をする、アメリカでは絶対に見られない全国イベントであると表現する。なにせ高校野球が始まると阪神タイガースは甲子園球場を明け渡して地方遠征に出かけなければならないほど高校野球のほうが地位が高い。飛田穂洲という日本野球を立ち上げた人物も紹介される。日本人で彼を知っている人間は何人ぐらいいるのだろうか。その飛田穂洲は高校野球について次のように言っているという。「高校野球は精神鍛錬のための教育の場であり、グランドは純粋な精神と道徳を学ぶ教室である、それが高校野球の本質である」。え!?野球はスポーツじゃあなかったのか、という筆者の驚きである。甲子園大会の楽しみ方、甲子園で活躍した有名選手が如何に女性に持てるか、そして猛練習で肩を壊す選手の話、その歴史、ここまで解説してもらうと、日本のスポーツが如何にアメリカとは異なる文化の上に存在するかがよく分かる。相撲、柔道、マラソン、水泳、体操、どれをとっても同じことが言えそうだ。「自分が今あるのは監督、コーチの教えのお陰です」「練習があったからこそ今ここまで来られたと信じています」日本人なら当たり前に聞こえるこうしたコメントはアメリカ人から見ればなんと違った風に聞こえるているのかが少しは理解できる。ちょっと目からうろこ、という気もする気づきの一冊である。
この本が書かれたあと、野茂が活躍、イチロー、松井と時代は進む。ホワイティングの本、もう少し読んでみることにする。
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