ある願望が達成され外的条件が前よりも良くなればそれに応じて要求水準も上がるため、より大きな満足を得るために何かがさらに欲しくなる、これを快楽の踏み車(トレッドミル)と加賀乙彦さんは著書「不幸な国の幸福論」で名付けています。経済学者のテリー・バーナムと生物学者のジェイ・フェランの「いじわるな遺伝子」によると、このような人間のあくなき欲望は遺伝子のなせる技、より貪欲に求めより多くの食料を得てきた種が勝ち残ってきた、進化の勝ち組だからこそトレッドミルを回しているというのです。「豊かになった物質生活を当たり前の水準だと感じ、その生活水準を維持できない自分が世の中からドロップアウトしたかのように感じる人たち」は、急激な経済発展を見せている中国の都市部でも見られるといいます。果たして自殺は欲望の裏返しなのでしょうか。そして、「欲しいものはない」、本当はこういう状態なのに、資本主義経済はさらなる新規市場創出のためにあらたな「欲望創出」をしようとしているのではないでしょうか。
不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)
いじわるな遺伝子―SEX、お金、食べ物の誘惑に勝てないわけ
また日本人には「他者に見られることを意識しすぎる」という不幸があると加賀さんは指摘しています。他者の評価を意識しすぎると対人恐怖症や、社会恐怖と呼ばれる人前でのスピーチや知らない人との会食に苦痛を感じるというもの、これはアメリカでも90年代から増え始めていることも紹介。もちろん単なるあがり症のような軽症のものから妄想を伴う重症まで様々であるといいます。さらに、自分は他人に不快感を与えている、嫌われている、などと妄想を抱くケースもあり、これは日本人に多く見られる症例だとのこと。妄想でも、フランス人は他人と同じになることをおそれ、日本人は他人と違うことを恐れる、このような違いもあるそうです。日本人には「見透かされ不安」がある、という事例に、加賀さんは暗夜行路の主人公、時任謙作をあげています。「謙作は常に他人の目を気にしていた、出生の秘密と妻の不貞を知った苦悩に加え、『あいつは俺の秘密を握っているんじゃないか、俺のことを嘲笑しているに違いない』などと考え自分を追い詰めていく」、こうなると不幸を自分で作り出しているようにも見えてしまいます。しかし、こうした日本人の特質が自殺者増加の原因なのでしょうか。
暗夜行路 (新潮文庫)
自殺者3万人の内訳を理由別(重複有り)に見てみると、健康問題14,684人(全体の約48%)、経済・生活問題7,319人(約24%)、家庭問題3,751人(約12%)、職務問題2,207人(約7%)、となっています。さらに全体の半分近くを占める健康問題の41%がうつ病、統合失調症が9%とも分析されており、少なくとも自殺者の約25%がメンタル問題を自殺の原因としていると言えます。さらには高齢化、少子化の進展で介護疲れや高齢者による犯罪も増加しているというデータもあります。日本の社会福祉に、他の国にはない大きな問題があるのではないでしょうか。OECDのデータによると、日本は社会保障給付費総計の対GDP比が17.7%となっており、対象29カ国中、23位と社会保障レベルの低い国に属しています。
OECDの図表でみる教育2009によると、教育に関わる公的支出のGDP比はOECD加盟国28カ国中最下位、日本の学費は世界一高いと言われ、こうした支出も国民の経済的な困窮に拍車をかけていると考えられます。経済の規模は世界第二位の日本なのに、いざというときのセーフティーネットが不整備であることが、自殺の引き金にはなっていないでしょうか。
なぜこうなってしまったのか、加賀さんは日本では経済発展の結果得たお金を、さらなる経済発展のために使ってきたからだと指摘しています。日本の場合の典型的な投資先は公共工事です。2002年に出版されたアレックス・カー著「犬と鬼-知られざる日本の肖像」では日本の公共工事について次のような記述があります。「日本の25倍の面積を持つアメリカの公共工事費の3倍の政府予算を日本は支出、さらに米仏独加伊英の6カ国の公共工事費用よりも多く、国の歳出予算の40%が公共事業にあてられている。これにより日本の建設業は20世紀末には全労働者の1割、690万人の労働人口を抱えるに至っている。こうした政府支出により福祉が後退し、ITなどの新たな産業創出に遅れをとってしまっている」。さらにカー氏は、この背景には産業界から政界への献金と癒着体質があるとも指摘、日本は少子化対応や将来に向けた長期的投資を怠ってきたと主張しています。「コンクリートから人へ」これを日本人は選択したのではなかったのでしょうか。
犬と鬼-知られざる日本の肖像-
加賀さんがもう一つ上げているのは、日本人が物見高く移り気なこと、その好奇心が大きな代償を支払うことになっているのではないかと指摘しています。山崎豊子さんのノンフィクションとも言える小説「運命の人」でも紹介された1971年の沖縄返還密約事件では、返還にあたり日本とアメリカの間で費用負担に関する密約があった、と新聞にすっぱ抜いたのは毎日新聞の西山記者。しかし検察は西山記者が外務省女性事務官との男女関係を使って機密情報を不正に入手したとして反撃、週刊誌に女性による手記が掲載された結果、世論は一気に男女関係のもつれと同情に傾斜し、密約の問題よりもスキャンダルに関心が移ってしまいました。結果として密約の存在は有耶無耶になり、国民が知るべき重要問題がその時に明らかになることはありませんでした。しかし、実際には密約があり、記事になった以上の米軍基地費用を日本が負担していたことが2000年のアメリカでの文書公開、そして2010年12月には日本の文書公開でも明らかになりました。今でも思いやり予算という名で行われている費用負担について、国民合意は形成されているのでしょうか。(参考 沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟 西山太吉、密約―外務省機密漏洩事件 澤地 久枝) その他にも大物政治家と企業の癒着や官僚OBのわたり問題、薬害エイズ問題などが報道されても、通り魔殺人や芸能人スキャンダルが報道されるとすぐに新しい話題に飛びつく、これが好奇心の豊かな日本人自身の首を締めているのではないかと加賀さんは指摘しています。政治のことはわからない、歴史には興味がない、などという無関心が不幸な国を作る、というのが加賀さんの主張です。
運命の人(一)
運命の人(二)
運命の人(三)
運命の人(四)
沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟 (岩波新書)
密約―外務省機密漏洩事件 (岩波現代文庫)
“KY”という言葉があります。「その場の空気」を読めないことは、コミュニケーション能力不足だと評価される、これは万国共通だと思いますが、“KY”と言われたくないので言うべき発言までおさえてしまうとしたら問題です。他人と諍いを起こさず人とうまくやることを重視する日本社会では、人と異なる主張をすることが難しい、こうした社会では市民という概念の独立心がある人々が育ちにくいのではないか、これはカレル・バン・ウォルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」のなかでの指摘です。ウォルフレン氏は同書に「政治に国民が影響力を持つためには国民、臣民ではなく市民であろうとすることが重要だ、市民は不正に対しては怒り社会に関わっていく」「個としての市民の自立が重要」と書いています。
人間を幸福にしない日本というシステム
「欲望のトレッドミル」に対応する考えは「足るを知る」だと思いますが、この老子の考え方は、「そこそこでいい」ということではなく、限りなく求めるような欲張りはいけない、という教えであり、地位や名誉に振り回されずもっと自足して生きようという考えです。そのためには政治や経済、国際情勢などの情報を自分で分析して考え、自分としての結論を導き出せる「情報リテラシ-」を育てることが重要になります。時代の空気や流行、慣習や世間、というものによって自分の考えが流されてしまっている、これが今の日本人ではないかと、加賀さんは指摘、「個」の確立、これが日本人に対する処方箋の一つになるのではないかと提案しています。もちろん日本人といっても一様ではありませんが、他者による評価に振り回されすぎないこと、流行や他人の服装などが気になりすぎないこと、人との違いが気になりすぎないことなどが、不必要な不幸観や結果としての自殺を防げるとしたら、人の親としては、これからの子育てを「個」育てにしていくことは重要なことになります。日本の国の福祉制度が不十分なために自殺者が増えているとしたら、無駄な公共工事を減らし、セーフティネット充実に向けて福祉への予算配分や優先度を上げるため、ウォルフレン氏の主張するように市民としてのアクションをおこす必要があると思います。
足るを知る 自足して生きる喜び (朝日文庫)
日本文化の形成 (講談社学術文庫)
新しい富の作り方 ~3年後にお金持ちになる資産の増やし方・守り方~
超マクロ展望 世界経済の真実 (集英社新書)
宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)
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