ニコチャンマネーメイク

株式売買などのマネーメイク日記。

突発性難聴をどういう風に攻略したのか?

2023-10-14 13:40:29 | 突発性難聴

今回は、YOUTUBEの動画の方にコメントをいただきました、「突発性難聴をどういう風に攻略したのか?」 という風に書いてありました。

 

突発性難聴というのは、例えば小学生くらいのチビッ子時代には、柔道などで耳を強打したという人がいて、「こっちの耳が聞こえないので、こっちの耳に話して」 と言ったりしていた子がいたりした。

 

1回言われれば覚えているので、指定された通りに話したりしていた。

 

大人になって、大学を卒業した後に会社員となり、働いている過程で、「突発性難聴になり、辞めます」 みたいな人がいて、「何だか大変そうだなあ」 という感じはあったものの、どこか他人事で見ていたと思う。

 

でも、自分がある日そんな風になった時に、どこか他人事で見ていたことが、自分事となってしまった事で、参ったなあ~ と精神的に凹むものを感じた。

 

どこかその現実をアクセプトできないようなものがあり、LENOVOのネットでオーダーした際にオプションで組み込みしてもらったJBLスピーカー搭載のノートPCでYOUTUBEの動画でも観ると、低音とかが聞こえやすくなるとかあったので、「とりあえずこれで何とかなるのでは?」 みたいに、深く考えないようにした感じ。

 

”メンタル・ヘルス” みたいな、精神を病んでいくかなあ~ と想像したので、先にそれをブロックというか、疎外すれば今より悪化し続けるという負の連鎖は絶てるのではないかなあ~ というイメージ。

 

そんな感じでリブートプレグラムみたいなものを組み立てていった感じになるでしょうか。

 

突発性難聴をどのように攻略したのですか?

 

上記の方にアウトラインを書いてみました。

 

例えば、どこかの総合病院などにずっと何かの病気で通い続けていると、おじいさんとか、おばあさんでも、どこかヤサぐれている感じはあったりすると思う。

 

例えば、その病気の事とかで何かを誰かにアドバイスされると、「それはもう知っている」 みたいな感じで、いろいろな情報をすでに持っているという感じだったりする。

 

でも、「情報と知識は違っている」 と思ったりするじゃないですか。

 

例えば、大学を卒業して新社会人デビューして、会社員1年生になった時にこういう事があったという話がブログに書いてあったとする。

 

それを今大学生の人が読まれ、「なるほどそういう事があったりするのか」 とネットで知った場合、それは情報みたいなものだと思うのです。

 

同じように大学を卒業し、あるいは高校を卒業して会社員となり、同じような経験をした人が読んだ場合ですと、「あ~それはわかるわ~」 みたいに共感できるようなものがあると思うのです。

 

例えば、自分のお父さんが飲食店をやっていたりして、高校を卒業してすぐにそのお店で働いたりして、社会人デビューをした人がいて、会社員として働いた事がないと、他人事みたいな話として、そのブログ記事を読んだりすると思うのです。

 

そんな感じといいますか、今高校生であったり、大学生であったりする人がネットで誰かの会社員ゲームではこんな事があるのでこう攻略しましたと書いてあったの読んだ時に、「楽勝じゃん」 と思ったりする。

 

そういった情報をいくら集めていたとしても、いざ自分が会社員になったりした時に、「うわっ、見るのとやるのとでは大違いじゃん」 となる事があると思うのです。

 

耳が聞こえないというか、まったく聞こえないわけでもない。

 

ある日難聴のおじさんのような世界となり、それは人生で初めての経験となるわけで、誰かがその治し方を親切丁寧に教えてくれるわけではないので、例えるならば大学を卒業し会社員となった時に上司が親切丁寧に仕事を教えてくれるわけでないのと同じだったりする。

 

例えば、男の子がいて幼稚園生とかなり、自分が自転車にまだ乗れなくて、友達が乗っているのを見た時に、上手く乗れる事ができないと悔しいとかあると思う。

 

自分が自転車に乗れないと、周りの子が自転車に乗ってどこかに遊びに行くというシュチュエーションでは置いてきぼりにされるような、ポツンと感があったりすると思う。

 

それで夜暗くなりかけても一生懸命に練習したりするとかがあると思うのです。

 

「僕は自転車に乗りたいんだ」 という想いみたいなものが、乗れないでこける恐怖感を上回ると、そうなっていく感じで、誰かが親切丁寧に教えなくても乗れるようになったりするじゃないですか。

 

ザックリ言ってしまえば、自分がそのままの自分でいるというのが許せないとか、自分が困るだけだと思うので、前に前に進もうとするのだと思うのです。

 

例えば、赤ちゃんがいて、子供の頃に親戚の家とかに遊びに行った時に、自分で歩くようになっていくとか見たりする。

 

それと同じように、幼稚園生とかが自転車に乗りたいと思って乗れるようになったりする。

 

たぶん、それをやりたいというピュアな気持ちが揺り動かしているのだと思うのです。

 

でも、人は大人になると、それができない理由とかを最初に考えたりするように、年齢のようなものを重ねる程に、そうなっていく感じがあるので、難しく感じるのかなあ~ と思うのです。

 

歩行器の中で、「歩きたい」 という想いの方が、「やりたくない」 というのを上回る。

 

自転車でも、「乗って動き廻りたい、走り廻りたい」 みたいな想いの方が、「転倒してこけた傷の痛み」 などを上回るのでそうなるのだと思うのです。

 

例えば、「突発性難聴になった事がある人が音の静かなハイブリッドカーに乗るのはお勧めだと言っていたので買ってしまった。 そのまま一気に好転させるつもり」 と誰かに言う。

 

それがもしも失敗したら、自分がさらに惨めな気持ちになるとか考えるから、やれないとかあるのだと思う。

 

でも、難聴という事に陥っている時点で、十分に自分が惨めだったりするわけで、さらに好転させようとして上手くいかなくても、「惨めさというのは、そう大差ない」 と思うのです。

 

例えば、プロ野球中継で試合を観ていて、4万人とか観戦している人が見ている中で、「ここで抑えてくれよ~」 みたいな場面で出てきて、サヨナラ逆転ホームランを打たれる人ピッチャーとかいるじゃないですか。

 

9回とかにクローザーのピッチャーが出て来た時に、何か儀式をしているような感じがあるじゃないですか。

 

年俸〇億円とかのピッチャーがやっていたりするくらいなので、それは真似ている感じもある。

 

『今から始めようとしているゲームは、頭の中でチャチャッと作ったもので、それはヴィジャーボードのように最後まで行かないといけない。 俗に言う、”ファントム” の亡霊を捉えたようなものに過ぎないので、それを実践で組み立てていく時に上手くできない事があった場合、プライオリティは、感情でなく論理的な判断でやります』

 

みたいな感じ。

 

たぶん、小学生3年生の子供でも、1度始めた事を最後までいけないと、”手続き記憶” のようなものとして考えた場合に、その後の人生に諦める癖みたいなものになって、何か悪影響が出そうじゃないですか。

 

辛いなあ~、みたいな感情になった時にひょっとしたら泣くのかもしれないので、最初に感情よりも論理的なもので判断すると決める感じ。

 

後は小学生5年生の時にトランペットの鼓笛隊に入っていて、プロ野球球場で演奏するイベントがあり、高熱を出してしまった時の事をちょっと思いだす。

 

熱が39℃とかあって、言いづらいのですが、「休みたいのですが」 と言いたいのに、「大した事なくて良かったな」 と女性の先生に言われてしまった。

 

自分たちの演奏の時間がくるのを待っている時に、「最後までいかないとどうしようもないなあ」 と思ったりした。

 

普通であれば病室のベッドで氷枕とかであ~とかうなりながら寝ていると思うのに、ちょっとした仕事が終わらない限りは横にもなれない。

 

意識が朦朧としている中で、「これは途中で意識を失うとか、倒れるとか、失敗したら大変な事になるのではないかなあ」 というのが気になる。

 

演奏の時に眩しいライトの中で、何をやっているのかが頭でよくわからないのにやっていて、終わると、「終わった」 と脱力感を感じた。

 

一説によると人は12歳までに覚えたりした事はボケても覚えていたりするといわれているので、小学生の頃に何かのハードルを越えたような記憶を思い出して見る感じ。

 

『指がパチンと鳴ったりするような、オープニングベルのような合図が鳴ったら、保護しているものは全部外してアドレナリンを出し切っちゃってください』

 

そんな感じで締めくくる感じでしょうか。

 

例えば、大けがをした時とかに、あまりの痛さとかに意識を失うとかあったりする。

 

心霊動画とかでも、何か幽霊みたいなものが出た時に、「きゃあ~っ」 と叫んで意識を失う人が出たりするじゃないですか。

 

あまり良い経験でないとかでその時の記憶も覚えていないと言ったりするじゃないですか。

 

そんな感じなので、何か頭が混乱した時の為に、「こういうマイルールでゲームを始めますよ~」 みたいな感じで、何かこういうやり方でお願いします~ と整理しておく感じでしょうか。

 

例えば、動物は襲われるようなシュチュエーションに遭遇すると、怒りの感情で吠えて、脳内にアドレナリンが溢れて、血圧が上昇し、血流が早くなりブドウ糖などが送られ、瞬発力とが出るようになると言われています。

 

チビッ子の時に観たゴジラの映画でも吠えていたし、プロ野球を観ていてもピッチャーが声を出して投げるとか、バッターが声を出してホームランを打ったりして、「声が出ていましたね~」 と解説者が言うじゃないですか。

 

ザックリ言えば、アドレナリンが溢れ出て、何かリミッターで制御されていたのが外れれば、瞬発力などは絞り出せると思うので、怒りの感情ではなくて、自分が、「ここは踏ん張りどころですよ~」 と認識できればアドレナリンは出ると思うので、「自分が合図を出したら、そういう方向でお願いしますね~」 みたいに言う感じでしょうか。

 

何かハードルを乗り越えた記憶などを思い出した方が良いので、「あの小学生5年生の時に、”何でこうなったのだろうか” と思う感じで病院に行ったら、”そのくらいなら出て来られるよね?” と言われてしまい、野球場に行って、1歩間違えば死んでしまうのではないかと感じていた」 みたいな緊急事態の事を思い出す。

 

12歳まで覚えた事はボケてもやると言ったりしますので、サバイバル訓練とかを振り返ってみて、「あんな死にそうな事を乗り越えてきたので、今回この突発性難聴での攻略では死なないと思えるだけマシかなあ」 と考える感じ。

 

「自分史上、しんどいなあ~ と感じたらワースト10にも入らないのではないか」 みたいに考える。

 

良くも悪くも甘やかされて育っていないと、たくさん辛かったような思い出はあったりするので、その点では楽なのかもしれない。

 

ベースというのは、チビッ子時代の思い出とかではないかなあ~ と思うのです。

 

「あんなこともあったりしたのに、そのハードルは乗り越えられて今に至るので、少し頑張ればきっと上手くいくとかそんな感じじゃないかなあ~」 と考える感じ。

 

思考停止というか、頭が朦朧としてくると考える力が無くなると思うので、「こういう感じでいきますか~」 というのは最初に確認していく感じ。

 

私三之橋の場合は、その場から逃げ出したいなあ~ とは思わない。

 

自分が高熱を出して、嫌々ならが現場に入った時に周りの人に当たるとか、愚痴を言うとかもなかったりする。

 

友達が人生詰んでしまった時に10代なのでトランキライザーを飲んで、お酒を飲んでとやっていて、その後どうなるのか? を見てしまった事で、お酒も飲まない感じ。

 

お酒を飲むのに付き合わされて、グズグズとずっと言われ続けると疲弊する感じがあるので、「だったらそういう風にお酒を飲まなければ少なくとも付き合わされる人は助かるのではないか」 と考える感じ。

 

そういう崩れ方をするよりは、”抗う人であった方がまだ周りの人は助かるのではないかなあ」 と考える。

 

周りの友達とか、何かフォロワーの人がいた場合、無理に付き合わされるのって悪いじゃないですか。

 

映画とか観ている時に、何か失敗してお酒に溺れる人が出てきたり、自分を嘆く人が出てきて、「俺は自分の事を嘆いている奴を見るのが1番嫌いなんだ」 と言ったりするじゃないですか。

 

30プリウスを買いに行き、エンジンをかけてもらって、「これ試乗できますか」 と訊いたら、「車検を切ってあるので、まさか試乗されるとは思わなかったので、今すぐ準備しますが、敷地内だけとなります」 と言われた。

 

「それは面倒でしょうから試乗はしなくて良いです」 と言ったら、「ほんとに大丈夫ですか」 と言われたので、「エンジンフードを触って冷たかったのでコールドスタートになると思い、エンジンかけてもらって異常な音は聞こえない気がしました。 それで買って失敗したなあ~ となればそれは私の責任だと思うので、もう1台30プリウスを買いますよ」 と言っている。

 

自分が実車を見て、それで買うと判断してそれが故障しまくるとかした時に、それを売った人のせいにするくらいならば、もう1台買うとかした方が自分の為には良さそうじゃないですか。

 

仮に200万円の中古車を買い、「ハズレだったなあ」 となった時にもう1台さらに200万円出して買い足せば、さすがに記憶力がない人でも、自分が失敗した事をずっと忘れないでいられそうじゃないですか。

 

「ヤサぐれると自分がカワイソウ」 というのがある。

 

逆に言えば、「ヤサぐれなければ、まだリブートのチャンスはあるかなあ~」 と考えている感じ。

 

チビッ子時代に、お父さんが何かの商売をしているような人が塾とかに行かされ、良くも悪くも10歳とかくらいから堕ちていく子がいたりするので、目に見えてしまうじゃないですか。

 

スーパー特待性の子とかと一緒にいると、どうしても堕ちていくダツラクするとこうなるというのは見てしまう。

 

ダツラクしない人は、ダツラクしていく人を見続けるので、あんな堕ち方をするとマズイよねえ~、 みたいなものがあったりするので、深く堕ちないようにしている感じはどこかあるような気がする。

 

例えば、どこかの会社で働き、上手くいかない事があった時に、深酒して酔いまくりとかをするよりは、さっさとその仕事は捨ててしまい、田舎とかで農業をやるとか全然想像できない世界に飛び込んだ方が、過去の失敗を思い出す暇がなかったりして気が楽ではないかと思ったりする感じ。

 

日本では古くから、「言霊(ことだま)」 というものが存在しているといわれています。

 

例えば、大学を卒業して新社会人デビューして、1度もやった事のない仕事をやって、と言われた時に、「うわっ、無理だあ~」 という風に受け止めると、いざやるとほんとに上手くいかないとかある。

 

1度上手くいかないと、次にまた似たような、「この仕事をやって」 と言われた時に前の失敗があるとそれを引きずってしまい、また失敗するとかあると思う。

 

でも、失敗を考えずに、「上手くいきそうな気がする」 という考えでやっているとほんとにそうなったりする事がある。

 

世の中には人生が上手くいかなくなったりした時に、心霊動画でも富士山の樹海のようなところで首を吊ったりして自殺する人がいたりする。

 

私三之橋の場合は、「それは死んだ後に自分が可哀想な気がする」 と思うので、ほんとにそういう自殺をしないといけなくなったらどこか高級ホテルに宿泊して綺麗な部屋で死んでいくような選択をすると思うのです。

 

ホテルマンとして働いた時に、各フロアを巡回して歩くという仕事もあるのですが、「三之橋さん、〇〇階は飛ばしてください」 という変な指示が回ったきたりする。

 

部屋で誰かが自殺したりすると、そのフロアに近づくと何かあるといけないので行かずの間、みたいな行ってはいけないフロアが指定される事がある。

 

あくまでも聞いた話になるのですが、どのホテルで清掃で入った時にどうも人が死んでいるみたいだ、というのを遭遇する事があるらしくて、その場合専用の人に連絡するらしい。

 

その人がすべて請け負ってくれるので、後はみんな気づかないふりをして絶対にその話題をしないようにしているような感じがある

 

「〇〇〇〇号室はどうでしたか?」 

 

みたいに質問もしないのがルールのような感じ。

 

「見ざる・言わざる・聞かざる」 みたいな、特定の事に関しては触れてはいけないみたいな暗黙のルールみたいなものがある。

 

どうしても、何かその事が気になったりして、その結果頭がおかしくなった、みたいな気が触れるという人が実際にいたりする。

 

例えば、「おいあそこに部屋に行ってみようぜ~」 と大学生のバイトの子がこっそり部屋に行っていて、その後に頭がおかしくなった子とか実在したりしているみたいな感じがある。

 

なぜ、ホテルで死んでしまうのか?

 

一般の人が宿泊できないような最上階のエレベーターもないフロアの部屋とかで寝ていても、お昼とかになると起こされるというのがある。

 

自殺とかに限らず、お酒でも飲んで眠って、そのまま目覚めない人は普通にいたりする。

 

その為清掃に入って確認するというのがあるので、自殺して何日も放置されない事になるので、自殺する人にはホテルが最後の時間を過ごすという点で人気が高い。

 

でも、自殺したりしたりする人って自分の事で精一杯だったりするので、その片付けをする人の事とか考えていないと思うのです。

 

それで、「私三之橋がもしも自殺でもしないといけなくなったら、山の中に入って死のうとか考えたら誰もいなくて怖くなって、それで首でも吊って成功した場合、犬とかに食べられて自分が可哀想な気がするので、ホテルに行って死のう」 みたいに考えるのです。

 

でも、ホテルマンとして働いたりした事があると、そういう自殺される人のお世話を一手に引き受けている先輩社員みたいな人がいたりするというのを見てしまう。

 

そうするとね、自分が死んだのを発見した清掃のおばちゃんとかが驚きまくり、トラウマになってしまうとか、後片付けしてくれる人が、「また今日は残念な日だった」 みたいに疲弊していくような気がするのです。

 

そうするとね、「自分が死んでいるのを発見してくれた人と、後片づけしてくれる人に、これを差し上げます」 と手紙に書いて現金も300万円とか500万円とか置いておくのが礼儀ではないかなあ~ と思ったりするのです。

 

賃貸のマンションとかで自殺する人とかでもそうだと思うのですが、その部屋の家主は、ショックを受け、リフォームでも損害出ると思うのです。

 

食べ方が汚い人を忌み嫌う人がいたりするように、たぶん死に方が汚いとショック受ける人がいると思うのです。

 

「私は掃除をするのが好きなので」 というおばちゃんがいて、額に汗を流して働いていたりする。

 

ホテルだと多くの人が見るホテルマンというのは、帰国子女みたいな若いお姉さんがフロントに立っていたりする姿で、AKB48とかにセンターに立っていたりするようなカワイイ女性だったりする。

 

ホテルの前とかを歩いていると、高級車がサッと寄ってきて、ホテルマンの若いお姉さんをナンパしようとしている光景とかざらに見る感じ。

 

ある日清掃のおばちゃんがいつものように部屋のドアを開けていたら、そこに死んでいる人がいたら、それは心霊動画に出てくるような幽霊とバッタリ遇った人が絶叫したり気絶したりするように、驚き、「もうドアを開けられない症候群になってしまい」 みたいになり、辞めたりするじゃないですか。

 

人生はシーソーゲームだと思うので、誰かが死んだ日に、その扉を開けた事でお金でも手にしてハッピーになる人がいないと帳尻合わない気がする。

 

いつも死んだ人のお世話をしている専属の係みたいな人が、「20年やってきて、今日はアタリの日だった~」 と思う事がないと続けらない気がするじゃないですか。

 

ホテルマンはつまらない日常という連続だったりします。

 

館内を巡回する人がいたりすると思うのですが、最新式の防犯カメラシステムがあるので、サボれない。

 

歩いていると変な人に声をかけられてしまう。

 

外国人が自販機のところにいて、「すみません、英語をしゃべれますか?」 と訊くので、「すみません、英語なんて全然しゃべれませんので」 と答える。

 

そうすると凄く笑って、「この子が飲み物を買うのに、ラベルが読めなくて」 とフランス人のお父さんと幼児の男の子がいる。

 

ここだけの話として、「えっ、人の話を聞いていますか? どこか外国に行った時に自動販売機とかを見たら、何が出るとか予想できなくても適当に買えば良いじゃないのかなあ~。 外れたらそれはそれで笑えるだろうし」 と思ったりするのです。

 

子供が飲みそうな順番を考えて、「これは水で、これはオレンジジュースで・・・」 と説明しないといけない。

 

最後にメルシーとか言われて、フランス人だったのかなあ~ と思ったりする。

 

ぱっと見何人とかわからないので、「すみません、もしもお時間があれば、私はスペインから来て質問したいことがあるのですが」 とか言ってもらえば、フロントに電話して、「スペイン語がわかる人を1人廻して」 と言って終わると思うのです。

 

でも、何語かもよくわからないのに、そのまま早口でしゃべる人がいて、援軍を呼べない。

 

例えば、病院だったらそこには何人かわからない外国人がきても、熱があるとかわかりそうじゃないですか。

 

でも、ホテルだと、遥々海を渡って来てみたら、お腹の具合が良くないとか相談する人がいる。

 

空気を読んで仕事をするみたいな感じなのですが、その割にチップとかもらえない。

 

そういうイメージから、ホテルで死んだりする場合には、アタリと思えるくらいの何かがあった方が良いと思うのです。

 

でも、そういう考え方をしている人はあまり死にたくなる事が無かったりする感じ。

 

何か1つの決まったモノの見方をするという事で人生が詰んでいるのかもしれない。

 

考えるというのには、考える時間帯を変えるとか、考える場所を変えると同じ事を考えても違うものが見えたりするといわれています。

 

家の中にいて、何か同じ事を考えているとすれば、外に出て車を運転しながらキラキラ光る海岸の水面とかの景色を見て考えると違ったものが見えてくるのかもしれない。

 

もしも、自分で死んでしまおう、みたいなそういうものを考えたとしたら、いっその事とエンドロールはこういう感じかなあ~ みたいに考えて、全部が重たい話だとそのストーリーはつまらないだろうから、お礼をプレゼントするとかを考える。

 

「自分が可哀想な人」 という風に考えていた主人公を「ある日ホテルの部屋のドアを開けた清掃のおばちゃんが、驚いたが、その出来事は結果的にお金ももらえたのでそんなに悪い出来事でもなかった」 みたいに考える。

 

ただ、「可哀そうな自分」 という同じシーンの映画をリピート再生しているような、壊れたレコード盤の音楽を聴き続けているようなもので不快さであったり、不安とか、恐怖があるのかもしれない。

 

頭の中のそのシーンを早送りさせるとかすれば、その不安は消えるとか、薄くなるのかもしれない。

 

世界的に見ても10代とかのメンタル・ヘルスとかが問題になる事があると思うのですが、誰もそういう見方がどうとは言わない。

 

自殺に至った原因のその人が悪いとかそんな話をする。

 

でも、ひょっとしたら、100人が100人、誰かに酷い目に遇わされたからと言って、全員死んだりしてはいないので、何かものの見方が違う事で死んでいないだけなのかもしれない。

 

私三之橋の場合は、大学を卒業して、新社会人デビューして会社員1年生となっていった。

 

その会社で、システム部門の責任者の50代の部長が、上司の部長と話していて、システムを作るという話でシステムの部長が断っていた。

 

さすがに銀行に出すという事でビビるものはあったと思う。

 

そこのテーブルに呼ばれて、「俺はとにかく忙しくてできない。 そのくらいなら三之橋君、君でもできるよね?」 と無茶ぶりされた。

 

会社員ゲームというのは、ある自分よりも大先輩がいて、何かの仕事をさせられるというシュチュエーションでは、その人に何か大義名分があるかのように伝家の宝刀を振り下ろすという感じで押し付けられることはよくある。

 

その場の雰囲気で、もう断れない空気感しかない感じで、それでも断るととんでもない喧嘩に発展しそうな感じと言えば良いのかもしれない。

 

でも、そういうシュチュエーションで、逃げたという事はたぶん1度もない。

 

「わかりました」 と言って請け負っているだけだったりする。

 

良くポジティブに仕事を積極的に挑んでいるように勘違いされる人がいらっしゃるのですが、どちらかと言えばそんな綺麗な話と違い、ドロドロした話だと思う。

 

例えば、OL姉さんの先輩に、「先輩聞いてくださいよ。 システム部のあの〇〇さんにこんな仕事を押し付けられてしまっちゃいました~」 と愚痴った事もたぶんない。

 

「やれと言われたので、それをやっていれば給料がもらえるだけありがたいかなあ」 と思ったりする。

 

それで最終的にできたシステムを銀行側に送ったら、審査して、ヒアリング調査に来てしまい、プログラマーの人が担当していた。

 

大人なのに、「自分は何もわからない。 言われた通りに作っただけ」 とどこか逃げまくりの言い訳をした感じ。

 

銀行のシステムって、そもそもシステム屋というコンピュータメーカーから派生しているスペシャリスト集団みたいな人達なので、それで審査されて絶賛されるとかあったりすると、その結果会社に役立つ人という評価になってしまう。

 

そんな感じで逃げないという事ができると、昇進するという結果だったりする。

 

例えば、主婦の人がいて、自分が買い物に行きたくないとご主人に、「ちょっと行ってきて」 と頼むとかあると思う。

 

自分が車に乗っていて、あまり車に詳しくないとかで車検でも、ご主人に、「ちょっと行って来て」 と頼む事があると思う。

 

でも、それをひたすら繰り返していくと、年を取ってご主人が死んだり離婚した時に、自分ではできないような苦手な事だけが増えていたりして、自分に跳ね返るとかあると思うのです。

 

誰か人に頼るが為に、シーソーゲームのように自分がダメになっていく。

 

でも、逆に言えば、善人にはほど遠い人たちと働き、押し付けられるのをやったりしていると、シーソーゲームなので自分が上がっていく感じはあっても、落ちていくという事は無かったりする。

 

その会社ではもう学ぶ事はない気がして転職する事になり、簡単には辞められないので毎月、「三之橋君を引き止める会」 みたいな飲み会をシステム部長が開催し、会社の経費で飲み食いする2人となってしまった。

 

それで、「三之橋君のやっていた仕事なんて誰でもできるんだ。 心配は要らん俺が全部やってやるよ」 と言って、「それは止められた方が良いです」 と言っても認知症のおじいさんに話に耳を傾けてはもらえない。

 

その結果、たぶん1,000人くらいを超えるレベルで地獄に突き落としてしまったみたいでした。

 

その会社では、最初に、「なんだか嫌な予感するなあ」 と振り向いたら高齢者の役員が杖を振り下ろす感じで、「うわっ危ないっ」 と避けたらカウンターに置いてあった500,000円か1,000,000円くらいの人形ケースとか人形が粉々になってしまった。

 

よくある総合病院の売店で売っているアルミ製みたいなものでなくて、メチャ高そうな木、紫檀とかそんなので頭に当たったら終わりじゃないですか。

 

たぶん、病んでいるみたいな人が何人もいた事で転職したいとなったのかもしれない。

 

たまたまそういう会社に就職しただけでしょ?

 

と思うかもしれませんが、ホテルマンは凄かった。

 

前任者は、最初は良かったみたいで、幽霊にでも遭遇し悪霊にでも取り憑かれたかのように別人になった感じの人だった。

 

何だか近づきにくい雰囲気しかないので勇気を出して質問してみたら、「そんな事もわからないんですか、はあ~っ」 と言ってどこかに行ってしまい、翌日から出社しませんでした。

 

占い師でも、最初に名前とか生年月日を訊くとかあると思うのに、1つ質問したら怒らせてしまい、2度と会えなくなってしまった。

 

気が触れてしまったらしいのですが、行く気がしないと来ないという凄さでした。

 

そんな感じで壊れた人を見てしまう。

 

テレビドラマを見過ぎてしまい、それが人生だと思い込むような人と違い、リアルな世界で壊れた人を見てしまう。

 

壊れた人が、「あの時はどうかしていたよ、もう病院で治療して治ったよ。 あの時は酷い事を言ってしまいごめんね~」 という事はない。

 

そういうイメージから、病気でもした時に、人生が壊れる時はドミノ倒しのように早いと言ったりするので、「だったらそのドミノが倒れる過程でどこかでブロックすれば全部は倒れないような気がする」 と思う感じで精神を病まないようにしているかなあ~ と思うのです。

 

例えば、世の中の仕組みを勉強するのに、テレビドラマや映画を観て、あるいは小説を読んでいる人はいると思います。

 

その場合、「頭が壊れた人」 というのは、演者が演じている病院などしゃべれない長期入院みたいな人かなあ~ と思う。

 

そうするとね、付き合っていた彼氏と結婚した女性が、そのご主人がおかしくなった時に、「頭の壊れた人はあのイメージかなあ」 とテレビで演者を見た姿を思い出して、「まだ壊れていないような気がする」 みたいになると思うのです。

 

俗に言う、”思い込み” というやつですよね?

 

私三之橋の場合は、頭の壊れた人とかは実際にリアルに見た人という、データベースは自分の経験したものを使っていたりします。

 

一般の人が見ないようなスーパー特待性の子と一緒にご飯を食べたりしたり、その人が天才にしか見えないのにその力を失って崩れていくとかも見ています。

 

データベースに、演者が演じた演技のようなものを使っていないので、その辺で差が出るというのはあると思うのです。

 

例えば、一般の人が、「お金持ちの人」 というお題でも出されたら、YOUTUBEに出てくる有名なYouTuberの動画で紹介されるお金持ちの買い物した結果とかではないでしょうか。

 

でも、私三之橋の場合は、「お金持ちの人」 という事で想像した場合、日本一の高級住宅街といわれている芦屋というところに生まれた時にはもう住んでいたというボスであったり、テレビとかでも絶対に紹介できない放送できないというメディアには出てこない人だったりするのです。

 

リアルなもので構成されている方が、よりリアルに、思い込みとかない組み立て方になると思ったりするのです。

 

例えば、今大学生の人がいて、将来卒業して社会人になった時の備えのようなものとして、偶然グーグル先生でみつけたブログを読み、「これはどこかの上場企業の正社員の人の日記だ」 みたいに読んだとします。

 

でも、その人はほんとはその企業の正社員でも3軍みたいな人かもしれないじゃないですか。

 

ひょっとしたら、派遣社員なのかもしれないし、ほんと別の会社で嘘ばかり書いているだけなのかもしれない。

 

でも、それを読んで間に受けてしまうと、間違って覚えてしまう事とかが増えると思うので、いざどこかの会社に入った時に、「何だかアイツおかしいよねえ~」 みたいになる事もあると思うのです。

 

リテラシーとかも重要なので、全く読まないとか観ないとかもどうかなあ~ とは思いますが、その世界に魅かれすぎるというのは気を付けた方が良いと思ったりします。

 

 

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