トドママのあるがままに

難病指定を受けている母親です。
笑顔を忘れないように、そんな思いだけでつらつら書きます♪

将来の夢

2021-03-05 08:42:00 | 家族

娘が通っていた幼稚園では、お誕生日のお祝い会というものが開かれていました。

まだ年少児の頃でしたが、そこで大きくなったら何になりたいかを発表する機会があったそうです。

娘はその頃決まって

「ちょうちょになりたい!」

と言っていたので、私はその夢の行方がどうなるのか、楽しみにしていました。

そしてお誕生祝い会でもそう答えたのだろうと思っていたら、ダメだと言われてしまったと少ししょんぼりして帰ってきました。

職業でないといけないと言われてしまって、ちょうちょはダメなのだそうです。

 

そっか。

 

それで、娘なりに一生懸命考えたようです。自分も大好きで、他の人も笑顔になるからという理由でアイスクリーム屋さんになりたいって言ったの、とニコニコしながら話してくれました。

このアイスクリーム屋さんという夢は、実は今に至るまで必ず候補に将来の夢のひとつなので、本人なりにすごく考えて考えて出した結論なのだと思います。

幼児教育としてもナイスアシスト!に違いないのですが、ちょっと私はさみしく感じました。いいじゃん、ちょうちょでも、と。笑

 

この当時、相談相手と言えばヘルパーさんがメイン中のメインでして、この話をしたところ

「え?なんでちょうちょじゃダメなんですかね!?」

と何も言わないのに、反応してくれました。

ちょうちょになれないのだということを知ったときどうするんだろうとか、ちょうちょに代わる夢ってなんだろうとか、もう少し言葉がうまく操れるようになったらなぜちょうちょになりたいのか聞いてみたかったので、私はさみしく感じたのだと思います。子どもの感性をとにかく大事にしていたのもあるこもしれません。

その大人の感覚や気持ちを共感してもらえて、とっても嬉しかったのを今でもこうして覚えています。

 

そしてこの話をしながら、娘が唐突に私に聞いてきました。

「ママ!おおきくなったら、何になりたいの?」

 

え!?

 

これ以上、大きくなったら、ママ大変よ!

ということではなくて、そっか。私はまだこれから何かすることができるのかな?

将来の夢とか、子どもが持つものだと思ってた。

 

目を白黒させながら、ぼーっと立っていたに違いありません。

そのまま「どうしよう、思いつかないなあ」、と言うと、へえーと言いながらも、少し驚いたような反応でした。


この時から、将来かあ、と私が私に質問することが時々訪れました。

なかなか明確な答えは出ないまま月日は流れ、また娘から同じ質問をされた時、こんな風に答えてしまいました。

「あなたにとって、自慢のお母さんになりたかったなあ」

キレイなお母さんに憧れていました。時々ハイヒールとか履いて、細身のパンツやフレアのスカートを履いて、お化粧もしてお散歩しちゃう、みたいなママになりたかったです。

他のお母さんやお友達から、あなたのお母さん変ね、とか、かわいそうね、などと言われない人になりたかった。

と、話すと


「えっ!」

と娘、びっくりしています。


なになに?


「ママは、私の自慢のママだよ。」


えー!!!

なんで?なんで?


「お料理も上手でおいしいし、絵とかもかわいく描くし、運動はできないけど教え方は上手だし、やさしいもん。」

と、ツラツラ、娘にとっての私の良いところを列挙してくれました。

もちろん、娘ならではのバイアス入りまくりで褒めすぎもいいところなんですけど、それをわかっていてもジーンとしてしまいました。

そっかあ。

私は自慢のお母さんになってるのかあ。

他の人からの評価は、もうどうでもいいや!って思いました。(その場は笑)


こうして、私の将来の夢さがしは続くことになりました。


家族はつらいよ

2021-02-13 03:44:00 | 家族

病気の人間の家族というのは、患者とは違った大変さがあると思います。

そしてその大変さレベルは、患者と同等かそれ以上だと思っています。

 

ひとつは肉体的にも精神的にも、物理的にも時間的にも大きな負担を強いられるということです。

これは言わずもがなですね。

ただ、この詳しい内容は意外と知られていないかなとも思います。これはそのうち書けたらと思います。

 

もうひとつは、逃げられるということ、から逃げないということです。

 

患者は病気を受け入れるも受け入れないも、逃げることだけはできません。

逃げるには死ぬしかないわけで、生きる上では逃げることは不可能なのです。

 

しかし、家族は逃げようと思えば逃げられる。

その中でいかにして向き合うかというのは非常に難しい問題だと思うのです。

 

かくいう私の家族たちも逃げなかったかといえば、そんなことはありません。

本人たちに自覚がない部分も含めて、逃げたということはもちろんあります。

それを患者である私は責めることもしましたが、かと言って責めきれないな、と言いますか、当然だなあと思っています。

 

よく離婚しなかったな、よく戸籍抜かれなかったな、よくぐれなかったな、みたいな、これは半分冗談であり半分本気の感想です。

 

最後に、病気の人の家族というカテゴリーは別だなと思うのです。

そして、その分野で、心理的にも経済的にも手助けがあればいいのになと思うのですが、そういうものは今のところないなあと思うのです。

 

せっかく手伝ったつもりがうまく行かない時、これなんかは共働きの夫婦で家事を分担している時とあまり変わらないかもしれません。しかし病気の人がいると家事も少し多くなったり、独特のものが出てくるので(例えば収納場所が変わったり、料理もメニューがさまざまになったりします)ぶつかることが多いと思います。お互い余裕もないので尚更かと。

また、病気の家族の治療がうまくいかないことでがっかりという感情がわいてしまう。それを共有できる人はいません。家族同士でも口にすることは我慢しちゃう。なんせ病人自身が一番堪えているのですから、もうやだ!とまでは言えないのですね。

辛さは比較できるものでも、比較するものでもないのでしょうけれども、患者の家族が患者を差し置いて辛いと言うのはタブーなような空気がある気がします。患者の方が辛いと思いがちなのです。真実は別にして。

仮に辛いねと泣き合うことはしたとしても、治療を頑張ると言ってる患者を横目に、その看病は誰がするの?とは言えません。自覚することすらないかもしれません。でも家族も大変な苦労を背負うはずです。そこに対する労りはない、従って逃げてしまう人もたくさんいるのかなと思います。

他にも、笑って欲しい、良くなって欲しい、具合が悪いなんてもう嫌、こだわりの強さとか何なの?神経質すぎやしない?このようなことを素直に言えると楽だと思います。

でも、それを患者に対して言うと楽にはなるけれど、罪悪感もあるように思います。だから他にそんなよりどころがあったら良いのになと私なんかは思います。


1番のあるあるは、

飽きた!

だと思います笑。もう痛いとかだるいとか辛いとか言われるの飽きた!とね。

飽きて当然です!

疲れなかったら頑張ってない証拠です笑

本当にご苦労様なことです。


私はつい、ごめんなさいを言いたくなりますし、よく言っていますが、家族はそれを望んではいないようです。

ありがとうをできる限り言うようには心がけています。


さーて。何かできることはありますかねえ。


転んだ時のこと

2021-02-05 06:08:00 | 家族
先日、見事に道で転びました。
泣くとか、辛いとかじゃなくて、とにかく痛いんです笑
もう、この歳でこの体重で転びますとですね、打ったところの衝撃たるや!!

たまたま家族がいた時だったので、恥ずかしさとかはなくて。ただ、痛くて立ち上がれないだけです。
家族はたまったものではありませんよね。その場に5分とか釘付けになるし、2人ともすっごい悲壮感たっぷりで、申し訳なさそうにたたずんでいます。娘なんかこの道通ろうとしたから、ごめんなさい、なんて言うんです。こちらも申し訳ない気持ちでいっぱいですが、ここで3人で悲壮感を振り乱してはいけないと、私なりに一応奮起するんですね。ただ立って歩くだけですけど笑


そうして歩き出したはいいものの、強打した膝は結構痛くて。ちょっとフラフラしちゃいました。
するとすかさず娘は手を繋ぎ、すかさず主人は私の腕を抱え込むんですね。
なんの技かと!笑

だめだよー!とふたりがいうので、両手に花状態で歩きました。

歩いててなんだか情けなくなってきて、うるうるしそうになりましたけれど、
「これ、結婚式の逆だよね」と主人が発言しました。

意味がわからないので、感情がピタリと止まります。

「ほら、新郎が腕をこう、腰に当てて、花嫁さんがそこに手をかけるでしょ?僕たちはその逆だ!」

絶対違うのです。
私の腕を抱え込んで運んでいるので、見た目にも全くキレイさもなし!逆とかそういう話になるわけがない!
トドママが抱えられて歩いてる、隣の子どもは杖がわり。が実態です。

ですが、その発想に思いっきり笑ってしまいました。

私自身もずいぶん変わった人間だと思っていましたけれど、似たもの夫婦なんですね。

娘も次に転びそうになったら、私がこうやって支えて!とシュミレーションしています。そのシュミレーションによって、むしろ手を繋いでいる分引っ張られたりして不安定になります。まともに歩いてくれないかなあ、となります。

変な家族ですねえ。
もちろん心底感謝してますけれど 笑

信じないからね!

2021-01-27 05:01:07 | 家族

ある日、リハビリの効果が出まして、歩道橋を渡れるようになりました。

家族に話しても、はいはい、みたいな反応なんですね。もう、二人とも全身から漂うどーでもいい感じ。

せっかく頑張ってここまできたのに、なんとまあ冷たい反応なんでしょうと思いつつも、こちらもそこまでこだわらずに、その場は違う話題になりました。

 

数日後、娘とお散歩に出かけた時に歩道橋を渡ろうと提案したところ、娘はごにょごにょと言って、何を言っているのかはっきりとしないのですが、要するに嫌だというのです。

いいじゃないの!と私がずんずん登り始めると、しぶしぶ登ってきました。

登りながらもぶーぶー、しのごの言うので、ついてらっしゃいと喝!そして降りる段階ではもう寡黙になっていました。

娘は体を動かすことが好きで、なんなら好きな授業は体育という子どもなので、本人が歩道橋を渡りたくないとか疲れるから嫌だというのはおかしいのです。その明らかにおかしい理由を言ってみたり、とりあえず駄々をこねるような発言だったりして、変ではあります。しかしこちらもそんなこと気にしている場合ではありません。必死に手すりを使って登る、そして転ばないように降りなければなりません。よいしょ、よいしょ。

「ね!歩道橋渡れたでしょ!?」

と、先日、微妙に疑われたような気分でしたので達成感も相まって笑顔で娘に訴えると、こう返ってきました。

「わたしは信じない!絶対に信じない!信じないからね!」

 

日本語としては何かおかしいのですけれども、要するに、今日歩道橋を渡れたのはたまたまであって、必ず渡れるようになるとは思わないし、期待しないからね、ということだそうで。そこまでですかと半分は情けなく思いましたけれども、そっかそっか、と子どもの心の成長を微笑ましく思いました。

帰宅して主人にその話をすると、

「いやー、それはね、僕も信じない。」

とのこと。いや、それは困ります。

「だってさ、もう歩けるようになると思わなかったんだから。」

え。

 

とりあえず、私の症状がのっぴきならなかったというのは置いておきまして、期待しないという精神的な防御が働くのはみんな同じなんだなあと面白いなあと思いました。

期待して、それができない時はがっかりしますが、できないものができないのであれば、それは事実として淡々と過ぎ去るだけなので特に心は動かないですね。だから「期待しない」という防御は有効な対策なのだと思います。

しかし、期待しないとだんだん鬱屈としてきて、頑張る気力も失せてくるんですね。現状維持もままならなくなってしまいます。

だから、期待しすぎないで期待する、というのを自分ではよく行っていました。

頑張るけど頑張りすぎない、というのも同じような理屈で。

心身に多少のダメージは必要だけど、大打撃は避けましょう、みたいな感じで笑

このさじ加減はよく間違えて、大打撃を受けることもしばしばありましたから、有効なものかはわかりませんが。少なくとも現状打破のためには、わたしは必要だったなと思っています。そしてもちろん、今も有効なものとしてうまくお付き合いしているつもりです。

 

そして、そのことが娘にも伝わっていて、おやじの背中ならぬ、母親の背中ですけれども、見ててくれたんだなあととても嬉しくなりました。

 

その後、特に問題なく歩道橋が渡れるようになったので、歩道橋の上から見る景色をふたりで堪能していました。なんの変哲もない街の風景なのでしょうが、いつもと見える景色がちょっとちがう、それは新しい発見をしたようで格別に楽しい時間でした。

その時、娘にこう告白されました。

「歩道橋、あの日渡るって言った時は転げ落ちるんじゃないかと思って心配したんだよ。わたし一人しかいないのに、ママが転んだら救急車とかどうしたらいいのかわからないし。怖かったんだよ。」

え、そこまで考えてたの。そんなに不安にさせてたの。それはごめんね。

「あと、やっぱり本当に歩道橋が渡れるようになるとは思わなかった。」

そっかあ。ママすごい?すごい?

「んー、すごいというか、今も少し信じられない。」

 

私の夢は、娘と思いっきり走ることです。

生まれてから適当に歩いたり、適当に走るようなことはできますが、思いっきりは無理でした。

足首がぐらつくような、捻挫しそう、みたいな感覚になって、とにかく踏ん張れないのです。今も足首と膝は腫れて膨らんでいます。どんなに筋力をつけてみても、なぜか調子の悪い日というのがありまして、脱力するのです。そして調子の悪い日は、やっぱり階段の登り降りはきついです。

でも、娘にとっての奇跡がここにあるんだとすれば、私にとっての奇跡もきっとこれから訪れるはずです。結果的に無理かもしれませんが、もう一段階がんばって、自分の夢に向かって走ってみたいと、リハビリを強化することにしました!地味な体操だけど、毎日は結構大変なんです笑 がんばります!


子どもの心と向き合う(嘘はつかない)

2021-01-14 08:15:00 | 家族
子どもは空気を読む天才だと聞いたことがあります。
おもむろについた大人のため息に対して、5歳の子が、「ま、いろいろあるよね」と発言したのでびっくりしたというエピソードを聞いたことがあります。その場にいた他の大人は全く気づかなかった小さなため息、それに気づいた子どもがすうっと近寄ってきて、その場の楽しい雰囲気を壊すことなくこっそりと話してくれたとか。すごいなといたく感心しまして、この話は数十年前に聞いたのにもかかわらず強烈なインパクトと共に覚えています。

一方の我が子、絶対そんな空気読んでません!!
超マイペース。
わがままだし、呑気だし、何より全体的にすごい遅いし!
結局ママやパパに手伝ってもらってお支度もようやく。ご飯はのろのろ食べるし。
怒られても何のその。
空気は読まなくていいから!もう、期待しないから!人の話くらい聞こうよ!
とまあ、こんな塩梅です。

これは生まれつきでもあると思いますが、とにかく納得しないと行動してくれません。失敗から学ぶタイプと言いますか。
ですので、例えば、食器をそんなにたくさん持って歩いたら落として割るよ、と言っても自分がいけると思ったことはまず曲げません。こちらもそれを知っているので、とりあえず忠告だけはしておこうと発言し、時に手伝います。そしていざこぼしたり割ったりした時に、「あゝ、こんなに積んではいけないとわかった」とこうなるので、失敗まで体験させ続ける必要があります。ひと手間かかる子だなあといつも思っています。

日常はこんな感じなんですけれども。
特に私の病気関係のことになると途端にアンテナが出てきて、いらぬことまで想像して不穏になってしまいます。妙に冷静でしっかりしてしまううこともあるので、こちらはえらいと思う以上に、不気味さを感じることすらあります。

こういう時に隠し事や嘘をついたりすると、大体始末に負えないことが起こります。そして何を言っても大人の発言信じてくれなくなります。
そのため、私は日頃から娘に嘘はつかないように気をつけています。わかりやすく説明するために、割愛したり、ちょっと意味が違ってしまうこともありますが、こちらが隠そうとしていないのであまり問題ではないようです。

嘘はいかんです。
我が子を見て、より強く思うようになりました。

無駄に子どもに心配をかけるなと言われたこともありますが、嘘をつかれて疑心暗鬼に陥るよりはよほど心は安定するように見えます。事実をきちんと受け止められなくても、覚悟を子どもなりにするようなのです。それ以上に大切なのは、信頼感でしょうか。嘘をつかれなかったという安心感、それは何にも変えがたいようです。

一方で、話さないことはありますし、優しい嘘も無くはないです。
でも、ここまで正直に話し続けていると、嘘つくとバレちゃいそうでこちらがソワソワしてしまってダメですね!笑。だからなるべく本当のことを話すようにしています。

サンタさん、日本人のサンタさんがいるんだって。
何で欲しいものがわかるのかは、わからない。間違えることもあるんじゃないの?

と、本当のこと、をきちんと話しています。
2020年も無事にサンタさんは来てくれました。いい子にしてたから来てくれたのかな?おまけしてくれたのかな?と大喜びでした。

今年も娘にサンタさんが来てくれることを、私も心から願っています。