とある日、娘がちょっと沈んだ感じで帰宅しました。
こちらも忙しかったのか具合が悪かったのか、その微妙な変化をあまり気に留めずに「おかえりー」と言って荷物を受け取っていたら
「あのね、ちょっと今日は大変なことがあったの。」
と言います。
よくみると少し潤んだ瞳で、悲壮感とともに上目遣いをしてくるので、あれ?と思って聞いてみますと
「転んじゃって。」
と膝小僧を見せてくれました。
スカートを少したくし上げて見せてくれた膝小僧は、一目でこれはすごいぞ、と思うような怪我の仕方でした。
明らかに種類の違うばんそうこうが2枚、それぞれしっかり真っ赤に染まっています。
少しだけ慌てて、椅子に座らせてから絆創膏を取りますと、何と言うかずる剥け、ですね。
こりゃダメだと、お風呂でしっかり洗って、それでも食い込んでいる砂とかを落としたり、余計な皮を切り取ったりして、普通に処置大会でした。
とはいえ、ただの怪我ですから、そんなに心がざわついても仕方ないですので、雑談をし始めたら、いろいろと楽しいことを教えてくれました。
学校の出口付近のアスファルトの上で豪快に転んだとのことで、痛くて足を見たら血が滴り落ちていたと。
それで心配した友達がこぞって絆創膏をくれたので、種類が違うものが2つ、そしてなんとポケットに予備で1枚、もらっていました。
あまりにひどい怪我とのことで、人だかりが出来てしまったので、状況説明をしながら交通整理をしてくれるお友達もいたそうです。
「こちらは転んで血が出ているだけですので、同じクラスのお友達以外はどうぞお通りくださーい。」
と。
もうね、おばちゃん、胸熱ですよ。
目の前の皮が捲れ上がった膝小僧は可哀想なんだけれども、それを心配してくれたお友達がいっぱいいて、エピソードのひとつひとつが全部キラキラ輝きを放っていて、みんなにありがとうを言って周りたい気分でした。
娘も、しっかりとお礼を言い、泣かずにえらいねとか言われながらの楽しい帰り道になったそうなんです。
こんな温かな世界があるんだということを、嬉しく思う保護者がいるんだということはなかなか伝えにくいのが残念です。
きっと、どんな子どもたちも、誰かの心を温かくさせる素晴らしい存在なのだと、感謝するばかりのできごとでした。
先日、学校の先生の話を聞く機会があり、その時にいただいた言葉があまりにも素敵だったので、今日はお裾分けのつもりで書きます。
クリスマスにちなんで、救世主とかいう存在がありますけれども、彼らは決して困っていることに対して具体的に何かを提示するわけではないのです。
困っている人に寄り添う
困っている人に心を寄せる
それが、救い主という意味なのだと。
間違った解釈を私がしたかもしれませんが、私はこう理解しました。
なるほど、世界の救い主として尊敬される人々ですら、具体的に何かができることを求めていないというのは、少し驚きました。
確かに奇跡的な出来事というのは逸話として存在するけれども、それは結果にすぎないということですね。
この話には、とことん勇気をもらいました。
体が現代の社会の動きに合わずに、何の役に立つのだろうと考えていたのですが、こうした寄り添う姿勢が大切というのなら、小さなコミュニティですが、家族の役には立っているので、よし、と思えました 笑
こんな話を娘にしたら、
「お友達がまたママに会いたいんだって。」
と言うからなんだろうと思ったら
「相談屋さんになればいいのにねってみんなで話してるの。聞いてほしいんだって!」
と話してくれました。
もう冬休みも近いですから、早いうちに学校までお迎えに行って、相談屋さんをしてきたいなあと思ってます。
救世主には程遠くとも、平凡な人間なんだからそれでいいんだと、思いっきり自分を認めてあげられる良い機会になりました。
減薬している最中にも、様々な学びと気づきがあり、人生勉強したいと思えばいつだってできるなとつくづく思ったものです。
しかし、一番恐ろしかったのは、やっぱり人間の心です。
リウマチに関係する痛みは、普通に怪我をしたのと少し違う感じがします。
私の場合は、関節の健が腫れているそうで、しかし本人の感覚は骨が痛いような、熱を持っているような感じです。
朝起きる時は、手を動かすことに多大な苦痛を伴います。こわばりというやつですかね。
この痛みがはっきりとした時、私の心は吸い込まれるように暗くなりました。
あの頃が戻ってくるのではないかという恐怖だということに気づくまでに、時間がかかりました。
無自覚だからこそ、ものすごく怖かったです。
普通に鬱状態になっていた感じです。
一方で、鬱っぽいな、おかしい、というのを感じるので、不思議な心地でした。
専門家ではありませんから適当なことを言いますが、こういうのをPTSDというのかもしれないと思いました。
忘れたくても忘れられないような拷問を受け続けるような痛みの中で、謝りながら暮らす生活を、もうしたくないのだと、つくづく感じました。
悟りを開ける人間にはなれそうにありません 笑
薬が私を助けてくれていますが、こうした一触即発になるような状況が体にあるという現実は、なかなか複雑です。
生きていることが当たり前ではない、ということは、実際に陥ってみてもなかなか受け入れ難いのかもしれません。
生きている奇跡を喜べるのは、自分の体と心に余裕があるからなのだということを改めて知りました。
自分の中にある可能性を信じ続けられるほど強い人間ではありませんが、信じてあげないとやってらんないなあ、と思ったので、まあ適当に自分を鼓舞しながら頑張り続けてまいりたいと思っています。
今、ずいぶん体調は整っていますが、かと言って薬を飲んでいますか?と聞かれたら、はい、ものすごく、と答えざるを得ません。