私は、ゲゲゲの鬼太郎を見て大泣きしたほどの、妖怪や鬼が苦手な人間です。
子どもの頃から、どうしてもダメなのです。
夢に見てしまいそうで眠れなくなってしまうし、想像すると自分が妖怪や鬼に出会ってしまいそうで、その時どうしたらいいかわからないのが怖いと思う理由かと思います。
今でも泣きはしないまでも、眉間に皺こそよれど、目尻に皺がよることは絶対にないです。
鬼滅の刃が流行っているよ、と聞いてはいたのですが、「鬼」でしょう?とそういう理由だけで敬遠していました。
ところが、学校とかお友達の間で大流行りしているとのことで、娘が連日その話をします。
お習い事に行っても、その話です。
ちょっとさすがに流行についていけなさすぎて、かわいそうでした。
そんなある日、鬼滅の刃のキーホルダーが入った「がちゃがちゃ」をやりたいとおねだりしてきまして。娘のおねだりにあまーいパパは、あっさりおねだりに応じていました。
どうせまた翌日にはそのキーホルダーも忘れて放置されるのだろうと思っていました。ところが、キーホルダーどころか、そのがちゃがちゃに入っていたおもちゃの紹介の紙まで大事そうにとっておいてですね、それを見ながら絵を描いたりしてうっとりしているんです。
いよいよかわいそうに思えてしまいました。
子どもの時って、友達の間で流行っているものって大切な世界ですよね。
「動画サイトとかでアニメを見ることができるよ」と教えてもらい、早速登録して見てみようと思いました。
ただ、うわさの通り?人が切り刻まれる様とか、首が吹き飛ぶ様とか、子どもに見せて大丈夫なのか?という心配がありましたから、これまた私も一緒に見ることにしました。
正直、初めての世界観で、やっぱり私の苦手な鬼とかも出てくるので、ふたりでガタガタ、ビクビクしながら見たのですけれども思いの外心理学的な世界もあって、楽しかったです。
娘は大興奮で、パパに報告していたのですが、言っていることがあまりに支離滅裂なので、とりあえず1話を見せることにしました。
「・・・これを。今の子供達は平気で見ているのかい?」
主人の第一声でした。
やっぱり怖いですよねえ。主人も食いつくように見ていました。
その後、しばらくの間、鬼滅の刃の要約は私と主人でずいぶん異なりました。
「鬼に家族を殺され、唯一残された妹は鬼にされてしまった少年の成長物語、みたいなもの」
というのが私の説明だったのに対し、夫は
「開始早々、鬼に家族を惨殺される話。」
という、とんでもなく雑で、明らかに見る気を失わせる酷い説明をして、職場の方たちを驚愕させていたそうです。
さすがに雑にも程があります。
ちょっと!言ってることは間違ってないけど、間違ってるよ!ちゃんとした説明をしてよ!と怒りますと、
「だってさあ!一家、惨殺だよ?家中血だらけでさあ!すごいよ、あの光景は!」
相当衝撃的だったようです。
「ぼくはさあ、目の前で血を吐かれて、白衣を汚したこともあるんだよ。でも家族をみんな殺されて、家中血まみれって。どういう地獄だよ。耐えられないよ。」
そうかあ。人は自分の体験と想像がリンクしますよね。私の想像よりももっとリアルで残酷なんだと思います。
もしかすると、私がいなくなることとかも考えてしまったのかもしれません。
私がいなくなったらどうするか、という考えようによっては不吉な話は、我が家ではよくします。
とりあえず、なんか、ごめんね。
とにかく、人それぞれ、感じることも十人十色です。
そういう意味でも素晴らしい作品だなあと思います。
そして、実は、怖いという理由で、繰り返しが大好きな娘も2回しか繰り返し見ることができていません。映画は、私の理由でDVDが出るまで待って、というお願いを全くごねることなく受け入れ、今もただただDVDの発売を待ち望んでいる状態です。漫画は買っていません。
それでも、アニメを見た記憶やファンブックだけで延々とブームは続いています。
またしても娘がもたらした我が家のブームは、今しばらく続きそうです。
大人になってから勉強するのはちょっと面倒だし、知らない世界に入るのは怖かったですし、遅い気もしていましたし、そんなこんなで若いうちにやっておけばよかったなあとずっと思っていました。
しかし、子どもと病気に導かれるように、いろんな世界を覗き見ることをはじめています。
非常にラッキーな話です。
今回は子どもに導かれた話を少し。
病気の親が育てた子ども、というかわいそうなレッテルを貼られては嫌なので、私はいろんなことを娘に体験させたいと思っていました。
テレビはほとんど見ていませんでしたが、逆に見るようになりました。
でも、そのセレクトはすっごく変らしくて、主人は
「君は本当に変人だ。病気の人とか、そういう以前の問題だ。」
と録画のラインナップを見て言います。
こんな勉強っぽい、真面目っぽいラインナップでは、見る気もしないし、休まる気もしないし、全く興味もそそられないよ、と、これ以上ないほどの猫背と細目になって、口と体でアピールしてきます。
全身で「あきれています」と言うのです。
その割に、まあ、いいから見てみなよ!と私が強引に見始めると、むしろ夫と娘の方がハマっていたりして、なんなんだよ一体、とつっこむしか方法はありません。
あまりにハマるので、ふたりの姿を動画に撮って楽しむ私がいたり。
その私に「ちょっとママちゃんと見てるの!?」とツッコミを入れる娘がいたり。
その後ろで「おお!お坊さんがお経を読みながらご飯食べてる!!」と、謎の大興奮を見せる主人がいたり。
楽しみ方は四方八方に広がるばかりです。
そのラインナップは、教育テレビだったり、知育系のDVDだったりもするので、いわゆる教育的な内容に見えます。
しかし、それがまたもう面白いんですね。
そもそも、そういう番組を録画するようになったきっかけが、私の趣味のひとつである大河ドラマ、その放送時間の前の動物や生き物を紹介するダーウィンが来た、という番組を見た時からでした。放送時間より前にテレビつけとこーなんてつけた時の、本当にひょんな出来事がきっかけでした。
娘がですね、目をキラキラさせて、表情をくるくる変えながら「かわいいー!」「へー!」「おー!」と食いつきまくりだったのです。そしてもうなんなんだかって言うくらい大爆笑したりしてて、そっか、この子はこういう番組がいいのね、と気付かされました。
娘は面白かったことはいろいろ思い出しては話すのですけれども、言葉がまだうまく使えないので、何を言ってるのかいまいちわからない瞬間が結構あります。
なので、私も一緒に見て情報を共有するようにしました。
すると、本人が何を疑問に思ってるとか、何を面白いと思ってるとかが、断片的な説明でもわかるんですね。
そうやって私も娘の趣味に付き合っているうちに、だんだん面白くなってきたのです。
娘は誰がどう見ても「勉強」していません。どう見ても遊んでいて、楽しむことだけしかしていなくて、我慢なんかどこ吹く風です。我慢させられるような内容になったら、なんか違うことをし始める始末ですので、純粋に楽しいんだなあと横で見ていて思いました。
しかし、内容は教育的なこともなくはないのです。
もちろん番組構成が秀逸なことは前提としてあります。
が、「あれ?私、勉強って思って勝手に身構えてなかったかな?」と、娘と番組を見ていて思うようになりました。
「勉強」って思ってる世界ってなんなんだろう?
こんなに楽しいことを、学校の机で教わって、テストで点数をつけられると、真面目ぶっちゃってたのかな、とか。
「知識」みたいな言葉で片付けられることになっちゃうと、つまらないように感じてたのかな。とか。
わかりやすい言葉や映像で、楽しそうに話す、本当の専門家の先生たちの話を聞いていると、こちらもすっごく楽しくなってきちゃうんですね。
つられ笑いみたいな?
こんな調子で、私は子どもの教材から全てを始めることにしました。わかりやすくて、入りやすいのです。
しかも勉強!って感じの心のハードルがない状態で始められるので、すっごくありがたいです。
子どもの本、って思って見ていなかった私って一体・・。もったいなかったです。
ということで、なんでも知りたいって思ったことは手を出してみることにしました。
小難しい参考書などは一切読んでいませんので、「勉強」しているなんて口が裂けても言えませんけれども。
私の頭の中の世界は広がるばかり。楽しい世界はこんなところからも広げられたんですね!
娘が幼稚園生の頃、よく
「他のお子さんとくらべないでください。ご自身のお子さんの良いところを見てあげてください。」
と言われていました。
そうだな、そうすべきだな、と思う一方で、やっぱり比べちゃうんだよなあと思ったり、その場でもすんなりとその言葉を受け入れることができなかったわけですけれども。
今は、むしろ、比較はすべきなのではないか?と思っています。
誰かと比べて「できない」とか「できる」という評価をすることはむしろ社会で生きる上でも必要なことだと思うのです。
そのできるかできないか、を「ダメ」と評価することが問題なのだと思います。
だって、得意分野ってなんだろう?って思ったら、社会全体を見渡して秀でていること、ですよね。得意分野をのばしてあげよう!なんて親心は、比較論の上にしか成り立ちません。
そして、「できない」という事実も、受け入れなければならないとも思います。
できないからダメな人間とか、落ちこぼれとか、そういう悪い評価につなげるのではなくて、そういう分野で活躍するのは控えようとか、そういう結論を導くためには大切な方法だと思います。劣っていることを把握するのは、生活する上で大きな支障がでなければ「控えよう」程度の評価でいいと思うんですね。冷静に自分自身を分析するために必要なことだと思います。
病気になって、私は今の自分を幸せにしてあげたいと思う一方で、比較はとても大切な考え方であると感じています。
昔と比べてできなくなったこと、がありすぎて、現実を受け止められないくらい打ちひしがれた時もあります。確かにダメな比較論の典型だとも思えます。
特に、パン屋さんでパートしてみたいなとか、そういう接客業とか肉体労働が「できなくなった」というのはさみしかったですし、ちょっとどうしていいかわからないときもありました。
でも現実はその通りなのですから。仕方ありません。
何か学校などで学習するにしても、テスト期間にテストを受けに行けないかもしれないというリスクを承知で始めなければいけないということもわかりました。
テストに行けない日があって、そういう不安があるとわかっていたくせに、悔しくて、その場では泣いてしまったことがありました。ちゃんと現実を受け止められていなかったのです。
テストの当日に体調が悪くてうけられずに留年、それが嫌ということで挫折するなら、そもそも挑戦してはいけないわけですね。健康な人とは違うけれど、かといって私が劣っているわけでもないのだから、時間がかかることを覚悟するだけです。何が劣っているかを知ることは何も自身のダメさ加減を知るだけでなく、必要な対処法を知ることに繋がる良いことだと思っています。
でも、テスト勉強はしたのに行けないとか、通常よりも時間がかかるということを受け入れるのは意外と容易くなく、そういう精神力も求められていることを知りました。
さて、本題として他の人と比べて例えば何が秀でているのか、と考えた時、これがまた見つからないので閉口しました。
自分ではわからないので、大体が他の人に指摘してもらったことを挑戦することにしています。
そのひとつが、まさにこのブログを書くことでした。
私のこの病気の経験が、他の人と違って面白いと。
そういうものか?と思いましたが、他の人と違えばそれだけで価値になるのかという発見のような面白さもあって、私は大変に勇気づけられました。
はっきり言ってこの病気の経験は「特異」なものであって「秀でている」わけでは全くありませんが、そんな経験から考え出される思考が少しでも「面白い!」と思ってもらえるなら、これほど励みになることはありません。
子育てにも、私の成長にもつながるなあと思った、他の人との比較。
何事も、あまり否定しすぎないことが肝要なだけかもしれませんけれども。
私はいい意味で利用して使っていきたいと思っています。