トドママのあるがままに

難病指定を受けている母親です。
笑顔を忘れないように、そんな思いだけでつらつら書きます♪

oh my God

2021-03-31 17:15:00 | 日記

私は、演劇が大好きです。

特に舞台は好きで、ミュージカルは私の最高にして珠玉の趣味でありご褒美でした。

 

別の方が、すでにご高齢でお仕事も退職されていた方が、

「今まで私はいろんな方に自分の時間を割いてきました、これからはいろんな方の時間をいただきます。」

というようなことをおっしゃって、舞台演劇を楽しんでいらっしゃいました。

 

私は、あーなるほど、とその時は思ったのですけれども、自分がミュージカルにハマった理由はどうも違うなと思いました。

あの臨場感ですかね。

パワーというか、オーラというか、とにかく体で受けるんです。

コンサートホールで音を振動と共に感じるのとかと似ているのかもしれません。

 

テレビで見ると、「あいしています〜ららら〜」みたいに非常に滑稽なんですけれどもね。俳優さんですら、そのパロディみたいなのにお付き合いしたりしますよね。あれはやっぱりテレビだから滑稽になるのかなと思ったりします。臨場感がないと滑稽になっちゃうというのはなんとなく常識なのかな?と見てて思いました。

やっぱりその場が大事なんですよ。

 

感染症と病状のからみで、私が劇場にいくのをほぼ断念せざるを得なくなっていましたが、去年、ついにひさしぶりに劇場に繰り出しました。

去年からまた行ってないんかあという哀愁も漂わせつつ。

 

それは、ゴッドスペルという作品でした。

私が学生時代からあこがれていたものの、なかなかご縁がなくて見にいけなかった演目でした。

何で行ったかというとですね。実は実は!私の友人が演出をしていたのです。

ゴッドスペルですよ!友人が演出!もうね、これ、いくしかないでしょとばかりに、マスクにアルコール、そして次亜塩素酸のスティックをぶら下げて、観劇しました。

久しぶりのあの臨場感は、そこに座っているだけで涙が出てきそうでした。

キリスト教に全く知識がない私ですけれども、いろいろ考えさせられました。

何よりも、私は左の頬をたたかれたら、右の頬を出すことはできないなと思いました。

 

そんな超俗人的なくだらない考えを巡らせながら、その場にいるだけで感慨がもう、こみ上げてくるものを抑えるのに必死でした。

そして、もう考えることができなくても、作者の意図がよくわからなくても、どうでもいいや、と思えてきました。

この臨場感を味わえて、パワーをもらえて、それを感じられるだけでいいのかなと。

とにかく私はとっても幸せでした。

 

何も考えずに、感じる幸せ。

幸せの形はいろいろありますねえ。また行きたいです。


隙間を埋める実験

2021-03-30 11:23:00 | 日記
昨日、主人に
「君のブログ読んだけど、これでは怪しい治療してるだけの人みたいになっちゃうよ。」と言われました。

え!

それはちゃんと伝えられていません。
文才ナシですみません。

私が言いたかったのは、病気になったからといってお医者さんに全てを委ねるのではなくて、自分で考えることや工夫、勉強を怠ってはいけないということでした。
プロの言うことは全て鵜呑みにして受け入れていればいい、というのではないということです。
否定しなさいと言いたいのでは全くありません。
抗いなさいと言いたいのでもありません。

隙間を埋めましょう的なことです。



これは、実は自分にいちばん言い聞かせていることです。私こそ、全ての疾患に関して、病名がつくたびに「これで安心」とばかりに、先生方に依存していました。
最近になっても「うーん、わからないなあ」と先生はよくおっしゃいますし、こんなことは挑戦してみる価値ありますか?と聞くと、「わからないことがいっぱいなのだから、なんでもやってみたらいいですよ。」と言われることが多いので、私は変なことを堂々とやってる感じなのです。

娘のアトピーの話も、もちろん皮膚科に通院したうえで、なので、たまたま良くなる時と太陽光が一緒の時期だったのでは?と聞かれたら、そうかもしれませんと言わざるを得ません。
でも、こうやって一緒に家族が頑張ってるから、娘も毎日の面倒な処置も続けられてるのかな?なんて思います。

私も、へんてこりん?なことをやりながらだから、頑張れているのかもしれません。
良くならなかったら先生のせい!現代医学は遅れてる!みたいに思うのも嫌です。思わないこともないくらいしんどい時もありますけど 笑

頼む〜何か解明してくれ〜と思う
→じゃあ、自分で実験したらいいではないの
みたいな感じでもあります。

ということで、今の医学に歯向かったり、ありえん!って思ったりしてるのではなくて、ガッチリお世話になりながら、でも自分でできそうなことを探して頑張ってます。


ちなみに、今、私の実験はリウマチ患者にとって、1日に何歩のウォーキングが良いか、ということです。
1万歩は多いかな、と思っています。
8000歩くらいはすごく良い気がします。

こんな調子なので、私の実験は終わることはないかなと思います。


外見に関する差別?

2021-03-29 06:30:06 | 日記

ニュースで、容姿に関して差別的、侮蔑的な扱いをすることはいけませんというような記事を読みました。

全くもっともです。

 

でも!

私、いくら自分のこととはいえ、自分の容姿を「トド」と言っていることはどうなんだろう。。

微妙に冷や汗をかき始めました。

これは差別的な扱い?

うーん。自分で言ってるからいいよねってことではないですよね。

 

でも、でもっ!

私には私の言い訳があって、やっぱり自分でも嫌いな容姿だったりした場合、こうして似たようなキャラクターや動物に例えて楽しい気分にしたいな、と考えているのです。

この外見は嫌いです。でも、嫌いで塞いでメソメソ泣いているのはもっと嫌なのです。

トドと言うことは、決して侮蔑的で差別的で蔑んでいるだけではありません。

それではむしろトドに失礼です。

 

ということで、少し悩みましたが、タイトルも私がトディであることも、そのまま楽しませてもらおうと思っています。

もし、今後私に会うことがありまして、「おっ、本当にトドだ!」と思うことがありましたら、遠慮なくそう口にしていただきたいなと思います!!


おわ!暗い暗い。

2021-03-28 21:49:00 | 日記

日曜日の夜ですね。

どうも最近の記事は暗くていけません。

ようやく、明るくなってきました。

我が家もエビカニクス的なダンスやら学校で6年生のお別れ会に踊ったというダンスやらをなぜか踊ったりして、よりアクティブに楽しく過ごしています。

明らかにご近所迷惑なほどケラケラと笑いまくっていますので、一家の大黒柱のはずの主人がもう少し静かに笑うようにと注意をするのですけれども、それも遠い声で、風に乗ってどこか吹き飛ばされているような状態です。なぜなら、パパが笑いのツボにハマって、注意することができなくなる事態に陥るからです。笑

 

ステイホームに慣れすぎてきて、だんだん家でやりたいことが飽和状態になり、若干イライラしたり、家族で意見がぶつかったりしています。

そんな中、予測がつかない未来に思いを馳せて、いろいろ楽しい時間も過ごしています。

夏休みに旅行なんて行けたらいいのにねーと言いながら、バーチャル旅行計画をしてみたり

かるた大会が冬にあるらしい(不確定)ので、今から一応練習しておこう!となってみたり

学校の行事予定を予定表に書き込んでみたり(割と不確定と言われていますが)

とにかく、なんかやること多いな!と思いながら過ごしています。

 

思い起こせば、その昔。

ノストラダムスの大予言というのがありました。世紀末に地球がほろびるという、子どもが聞いても「それはない」と突っ込む気も起きないくらいの予言だったのかもしれません。

しかし、小さい私は、テスト勉強とか苦しい持久走とかがあるたびに

「何故こんなことをしなければならないのか。いっそノストラダムスの予言通りになったらいいのに。」

と思っていました。

そうしたら、今がまんすることなく、楽しいことだけをして暮らせるのに、と思ったのです。

未来があると思うから、仕方なく我慢するのだと思っていました。

 

「もし本当に地球が滅亡しなかったときのために、がんばるのだ」という、なぞのモチベーションで辛いことを耐え抜いてきました。

今は、その時の同様に、「このまま平均寿命まで生きてしまったときのために、がんばるのだ」というモチベーションな気もしています。

 

でも、今は毎日何か楽しいことがあります。何より、それを感じる力がつきました。

日々のくだらない争いもまた、楽しいです。

今も、パパに娘がぶーぶーと文句を言っていたりして、そういうめっちゃどうしようもない会話?状況?が目の前で繰り広げられていますが、「あんな赤ん坊だったのに、一丁前に眉間に皺を寄せてブーブー言ってるよ」みたいな感慨も押し寄せてきて、楽しく感じています。

生きているから味わえるんだとしみじみなんかしてみたり。

と、にやにやしていると、怒りの矛先が私に向かってきたりして、有耶無耶のうちにこしょこしょ大会からのケラケラの我が家に戻っていたりします。

 

こういう小さな当たり前の幸せを、存分に感じられる自分になったということは、とてもありがたい変化だと感じています。


アトピー(娘の葛藤)

2021-03-27 02:33:43 | 日記

アトピーは娘の病気ですが、赤ちゃんの頃から、ということになると母親の私ももはや他人事とは思えません。

 

病気というのは家族で闘うものだなと改めて思います。

例えば、食生活を改善しなさい、と言われて一人だけ特別メニューにされても、となりの人が食べてるものを食べたくなってはかわいそうです。

家族の食卓ごと変化させないと。

だから、ひとり病気の人が出ると、家族で闘うことになるんだよなあと思っています。

 

しかし、本人の苦労はまた別なところにあって、大人としては子どものそういう苦労を聞いてあげないと、と思うのです。

ただ、かわいそうなのですが、娘にとっては私が突然「黄色ブドウ球菌説を採用!」したことで、さらにいろんなことが起こりました。

病気は確かに良くなりました。

ただ、その過程で菌を家から追い出すぞ!と私がやり始め、思い出の洋服なども処分されてしまったのです。

お人形もかなり選別されてしまいました。

 

かわいそうだな、と犯人の私でも思います。

母親の横暴だ、ともいえます。

病気が治ればそれでいいのか?という気もしてきます。

 

そこはもちろん価値観の問題だと思いますが。

私はやっぱり健康が第一だと思いました。

自分が一番手に入れたいものは何かと問われると、今はとにもかくにも、元気な体が欲しいです。

そこは主人も同じ意見でしたので、娘にわかってもらおうということになりました。

娘も頭ではわかっているようなのですが、心が寂しいという状況のようでした。

私も娘の小さい頃の服とかが無くなるのは寂しいんだという話を共有したり、どういう原因でこういう肌になっているのかとか、え?子どもに?と思うような内容だとしても、一応伝えてみました。何が効くのかわからなかったので。

 

病気というのは、本当に失うものが多いなと思います。

でも、一生懸命向き合えば、失った以上のものも得られるかもしれないと、最近は希望も持っています。

娘とこうして向き合う時間を持てることは、面倒な時間というよりも、ありがたい時間だと感じながら過ごしています。

そして私自身もこうして娘の病気を通じて自分についても考えることができることは、これまたとてもありがたいです。

その時は無我夢中ですけれども、落ち着く日がくるんだという希望もまた私の体調をここまで引き上げてくれた原因かと思います。

 

娘の思い出の品々はずいぶん処分されましたけれども、心の中と写真にはいっぱい残っています。

お墓には持っていけないのだから、と、娘も娘なりに頑張って心の整理をつけてくれました。

これからも、いろんな思い出を積み重ねていきたいです。