今日は、曹洞宗の両祖の一人である「道元」の人生にスポットを当ててみましょう。
鎌倉という新しい武家の世が開かれ、朝廷とのあいだに激しい権力争いが行なわれた。1221年(承久三年)、承久の乱で朝廷が敗れ去ったのち、道元は宋から新しい禅をもたらした。名利や権勢から離れ、坐禅によって民衆を救おうと力を尽くした。「末法の世」を認めず、渾身、修行につとめれば、それが仏法そのものだとした。新しい価値社会に、新鮮な大陸の禅は急速に浸透していく・・・。
1200年(正治2年)
父は後鳥羽院に仕える内大臣久我道親、母は前摂政関白松殿基房の三女伊子といわれる。最近の研究では、道親の二男道具が父との説もある。いずれにせよ村上源氏直系、名門の子だった。
1203年(建仁3年)
二代将軍頼家を修善寺に幽閉した北条時政は幕府の執権となり、翌年、頼家を謀殺した。道元四歳。
1212年(建暦2年)13歳
幼くして父母を亡くした道元は、母方の叔父の天台僧良顕(良観)を訪ね、許しを得て比叡山横川で出家。翌年、天台座主公円のもとで剃髪得度。菩薩戒を受けて「仏法房道元」と名乗った。
1214年(建保2年)15歳
天台宗の教えに疑問をもち、三井寺の光胤のすすめで、栄西が宋から伝えた臨済宗を建仁寺で学ぶ。下山の年を建保五年とする説もあり、建保三年に示寂した栄西との相見は定かではない。
1291年(承久元年)
将軍実朝の暗殺
鎌倉鶴岡八幡宮の階段を下ってきた実朝を、甥の公暁が刺殺。源氏将軍家は断絶した。道元20歳
1221年(承久3年)
承久の乱
朝廷の後鳥羽上皇は西国の武士・僧兵らを集め、鎌倉幕府を倒そうとしたが、敗北した。道元22歳
1223年(貞応2年)24歳
明全らと宋へ渡り、天童山景徳寺の無際了派について臨済宗大慧派の禅を学ぶ。その後、杭州の径山、台州の万年寺などを遍歴。禅宗各派の嗣書を研究したが、正師には出会えない。
1225年(嘉禄元年)26歳
天童山景徳寺住職となった如浄に入門する。名利・権勢を避け、古風な曹洞禅の修業を続ける如浄は理想の正師だった。二年後、身心脱落の境地を得て嗣書さずかり帰国。
1227年(嘉禄3年)28歳
帰国すると建仁寺に仮寓して「普勧坐禅儀」著す。自分が伝える坐禅は釈尊正伝の真実の仏法だとし、出家・在家・老若男女を問わず、すべての人にすすめた道元禅の独立宣言書だった。
1230年(寛喜2年)31歳
天台宗・真言宗との兼修を否定し、「只管打坐」の専修禅を強調。比叡山の圧力が強まり深草へ避難する。布教活動が活発化し、三年後に興聖寺を創建。懐奘ら達磨宗系の入門が続いた。
1233年(天福元年)34歳
興聖寺創建と機を同じくして、大著「正法眼蔵」に着手。「現成公按」「礼拝得髄」「嗣書」「仏性」「行持」の巻など、13年間の深草時代に半分近くの42巻が書かれた。
1243年(寛元元年)44歳
積極的な布教が進むと天台宗の圧迫が再び強まる。また興聖寺のすぐ目の前に臨済宗東福寺が開かれた。京での布教を断念し、志比荘の地頭波多野義重のすすめで越前(福井県)へ移る。
1244年(寛元2年)45歳
越前の禅師峰寺・吉峰寺などで精力的に説法。九ヶ月間で「正法眼蔵」の三分の一「仏道」「諸法実相」の巻など31巻を書いた。布教のため妥協は一切なく、純粋な出家主義を説いた。
1246年(寛元4年)47歳
大仏寺を建て、新しい修行方法を確立したのち、永平寺と改名した。寺名は仏教が中国にはじめて伝来した「後漢の永平十一年」からとり、道元禅が正法の仏法だと強調している。
1247年(宝治元年)48歳
執権北条時頼の懇請により非常な決意で鎌倉へ行く。菩薩戒を授け禅の教化につおめたが、武士たちの教化には限界があることを感じ、時頼の寄進も断って、翌年越前に帰った。
1253年(建長5年)54歳
厳しい修行で腫瘍が悪化したと伝えられ、療養先の俗弟子覚念の邸で短い一生を終えた。遺偈は「渾身覓なく(渾身の力で生きた。もはや求めるものはない)活きながら黄泉に落つ」
鎌倉という新しい武家の世が開かれ、朝廷とのあいだに激しい権力争いが行なわれた。1221年(承久三年)、承久の乱で朝廷が敗れ去ったのち、道元は宋から新しい禅をもたらした。名利や権勢から離れ、坐禅によって民衆を救おうと力を尽くした。「末法の世」を認めず、渾身、修行につとめれば、それが仏法そのものだとした。新しい価値社会に、新鮮な大陸の禅は急速に浸透していく・・・。
1200年(正治2年)
父は後鳥羽院に仕える内大臣久我道親、母は前摂政関白松殿基房の三女伊子といわれる。最近の研究では、道親の二男道具が父との説もある。いずれにせよ村上源氏直系、名門の子だった。
1203年(建仁3年)
二代将軍頼家を修善寺に幽閉した北条時政は幕府の執権となり、翌年、頼家を謀殺した。道元四歳。
1212年(建暦2年)13歳
幼くして父母を亡くした道元は、母方の叔父の天台僧良顕(良観)を訪ね、許しを得て比叡山横川で出家。翌年、天台座主公円のもとで剃髪得度。菩薩戒を受けて「仏法房道元」と名乗った。
1214年(建保2年)15歳
天台宗の教えに疑問をもち、三井寺の光胤のすすめで、栄西が宋から伝えた臨済宗を建仁寺で学ぶ。下山の年を建保五年とする説もあり、建保三年に示寂した栄西との相見は定かではない。
1291年(承久元年)
将軍実朝の暗殺
鎌倉鶴岡八幡宮の階段を下ってきた実朝を、甥の公暁が刺殺。源氏将軍家は断絶した。道元20歳
1221年(承久3年)
承久の乱
朝廷の後鳥羽上皇は西国の武士・僧兵らを集め、鎌倉幕府を倒そうとしたが、敗北した。道元22歳
1223年(貞応2年)24歳
明全らと宋へ渡り、天童山景徳寺の無際了派について臨済宗大慧派の禅を学ぶ。その後、杭州の径山、台州の万年寺などを遍歴。禅宗各派の嗣書を研究したが、正師には出会えない。
1225年(嘉禄元年)26歳
天童山景徳寺住職となった如浄に入門する。名利・権勢を避け、古風な曹洞禅の修業を続ける如浄は理想の正師だった。二年後、身心脱落の境地を得て嗣書さずかり帰国。
1227年(嘉禄3年)28歳
帰国すると建仁寺に仮寓して「普勧坐禅儀」著す。自分が伝える坐禅は釈尊正伝の真実の仏法だとし、出家・在家・老若男女を問わず、すべての人にすすめた道元禅の独立宣言書だった。
1230年(寛喜2年)31歳
天台宗・真言宗との兼修を否定し、「只管打坐」の専修禅を強調。比叡山の圧力が強まり深草へ避難する。布教活動が活発化し、三年後に興聖寺を創建。懐奘ら達磨宗系の入門が続いた。
1233年(天福元年)34歳
興聖寺創建と機を同じくして、大著「正法眼蔵」に着手。「現成公按」「礼拝得髄」「嗣書」「仏性」「行持」の巻など、13年間の深草時代に半分近くの42巻が書かれた。
1243年(寛元元年)44歳
積極的な布教が進むと天台宗の圧迫が再び強まる。また興聖寺のすぐ目の前に臨済宗東福寺が開かれた。京での布教を断念し、志比荘の地頭波多野義重のすすめで越前(福井県)へ移る。
1244年(寛元2年)45歳
越前の禅師峰寺・吉峰寺などで精力的に説法。九ヶ月間で「正法眼蔵」の三分の一「仏道」「諸法実相」の巻など31巻を書いた。布教のため妥協は一切なく、純粋な出家主義を説いた。
1246年(寛元4年)47歳
大仏寺を建て、新しい修行方法を確立したのち、永平寺と改名した。寺名は仏教が中国にはじめて伝来した「後漢の永平十一年」からとり、道元禅が正法の仏法だと強調している。
1247年(宝治元年)48歳
執権北条時頼の懇請により非常な決意で鎌倉へ行く。菩薩戒を授け禅の教化につおめたが、武士たちの教化には限界があることを感じ、時頼の寄進も断って、翌年越前に帰った。
1253年(建長5年)54歳
厳しい修行で腫瘍が悪化したと伝えられ、療養先の俗弟子覚念の邸で短い一生を終えた。遺偈は「渾身覓なく(渾身の力で生きた。もはや求めるものはない)活きながら黄泉に落つ」