とどちゃんの縁側でひとり言・・・。

日々の生活の中で見たこと感じたことを記録していきます。

曹洞宗について・・・6

2006-10-17 23:47:19 | 宗教
本日は、曹洞宗の両祖の一人、瑩山の人生を振り返ります。

瑩山の生涯は、鎌倉幕府が隆盛し、衰えていく時期と一致している。得度式を上げて一人前の僧になる前後に二度の元寇があり、元を撃退した幕府の支配力は全国的に強化された。瑩山も能登(石川県)を中心に教線を拡大し、多くの逸材を育成し、後世の曹洞宗隆盛の基礎を築く。北条氏の専制で幕府が衰退し、後醍醐天皇が討幕に動きはじめるころ、瑩山の生涯も終った。

1268年(文永5年)

越前(福井県)多祢の観音堂に、熱心な観音信者だった母の懐観大姉がお参りに行く途中、その敷地内で出産したと伝えられる。父は了閑上座。1264年や1266年の誕生説もある。

1275年(建冶元年)8歳

母方の祖母明智に連れられ、越前(福井県)永平寺三世徹通義介のもとで出家。明智は道元が宋から帰国直後に入門した女性。義介は「三代相論」により翌年住職を退任し、二世懐奘が再住。

1280年(弘安3年)13歳

9歳から懐奘の膝下で修行し、得度式を上げて一人前の僧となった。二年前に文永の役、得度の翌年は弘安の役。道元や義介が学んだ南宋は元に滅ぼされ、北陸の地も元寇で揺れた。

1286年(弘安9年)19歳

17歳で「師翁」懐奘が遷化。義介が再住して「三代相論」が再燃。永平寺を出て、道元の高弟だった宝慶寺住職の寂円に参じた。寂円の厳しい指導のもとで、不退転の菩提心を発する。

1287年(弘安10年)20歳ころ

宝慶寺から諸国行脚に出た年を不明だが、後世の史伝では二十歳頃、比叡山に学び、東福寺の白雲慧暁から天台密教を興国寺の心地覚心から真言密教を学んだと推測される。

1289年(正応2年)22歳

場所は加賀(石川県)大乗寺と推測される。「法華経」法師功徳品を読み、仏法の核心にふれる。「聞声悟道」を得、25歳で「観音の如く大悲闡提の功誓願を発す」。どのような困難も克服し、衆生を救うためには地獄に堕ちてもよいと非常な勇気を要する決意をした。

1295年(永仁3年)28歳

阿波(徳島県)の郡司の招きで城万(満)寺住職となる。翌年、永平寺を訪れ、四世義演の方丈(居室)で仏祖正伝菩薩戒作法を授られた。31歳までのあいだに、城万寺で有縁の者七十余人に戒を授けた。

1299年(正安元年)32歳

城万寺から大乗寺に戻った翌年、義介の法嗣となり、大悟のきっかけは「平常心是道」(日常そのものが、真実の仏道のあり方である)だった。

1302年(乾元元年)35歳

義介の後を継いで大乗寺住職となる。自分の禅が師資相乗の正伝であることを確認するため、37歳あら修行僧に「伝光録」を議義。釈迦から中国をへて道元・懐奘へいたる、歴代祖師の業績を53回にわたり説いた。1300年(正安2年)の説もある。

1313年(正和2年)46歳

師の義介が遷化して二年後、大乗寺を高弟の明峰素哲に譲り、その二年後、祖忍尼と夫の滋野信直の寄進を受けて能登(石川県)に永光寺を開いた。正式に入山したのは50歳のとき。

1323年(元亨3年)56歳

永光寺山内に曹洞禅の嗣承をあらわす塔所を建立した。如浄の語録、道元の遺骨、懐奘の血経、義介から瑩山へ伝えられた日本達磨宗の嗣書を収め、道元禅の嗣書と伝衣のみを残した。

1324年(正中元年)

(正中の変)
即位した後醍醐天皇は天皇親政とし、日野資朝らとはかって鎌倉幕府を倒そうとしたが、失敗した。

1324年(正中元年)57歳

永光寺の法堂が完成し、總持寺の伽藍造営進んで僧堂が開かれた。總持寺住職を高弟の峨山韶碩に譲って二世とし、自らは永光寺に移る。このころ「瑩山和尚清規」を整備したと伝えられる。

1325年(正中2年)58歳

永光寺住職を高弟の明峰素哲に譲り、八月十五日の夜半、永光寺で示寂。62歳の説もある。遺偈は「限りなく霊苗の種は熟脱す、法堂上に鍬を挿む人を見る」。農民生活に根ざす仏法だった。
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