臨済宗シリーズも終盤になってまいりました。
今回は公案語録を紹介しましょう。
・・・隻手音声・・・
両掌相打って音声あり
隻手になんの音声かある。
「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手ではどんな音がするのか。」
白隠慧鶴が創始した有名な公案である。新到(新参の修行僧)は最初に、師家からこの公案か「趙州無字」の公案を与えられることが多い。
片手の音など聞こえるはずがない。と、考えるのが自然で、もともと知識や常識とは無縁の問いかけなのだ。この公案をぶつけることによって、師家は修行僧を分別のおよばぬ世界へ直入させようとする。
学人(修行僧)は迷う。これまで見につけてきた論理や知識が邪魔をして、なかなか新しい世界へ直入することができない。作務のあいだも坐禅のあいだも「隻手」がちらつき、「なんだ、なんだ」と疑問で身を焦がす。頭のなかだけでなく、体全体が疑問の塊となる。悟りにいたる直前の「大疑団」の状態である。
手や音にこだわるからいけないのだ。これはあくまで例にすぎない。畑を耕す自分を考えてみればよい。夢中になって鍬を振るうちに、周囲のことなど気にならなくなり、我を忘れ、いわゆる三昧となる。畑の土と鍬を振るう自分が一体となっている。「両手を打った音」とはまさにそれだ。
自己と対象が一体とならなければ妙音は出ない。「片手の音」とは、まだ自己と対象が一体となっていない、本来の自己を見失ったままの状態である。思慮分別を捨て、「本来の自己」を究明するおとから禅の修業が始まる。
・・・趙州無字・・・
趙州和尚、因みに僧問う、
「狗子に還って仏性有りや也た無しや」
州云く、
「無」
唐代末期の禅僧趙州に、ある僧が聞いた。「犬にも仏性がありますか」。趙州は答えた。「無」。この公案は「隻手音声」と並んで、所関(はじめて与えられる公案)に使われる第一のものである。
訓は秋月龍のものに従っている。
その教えによると「無」は「なし」と読むのではない。あくまで「む」と読む。「涅槃経」には「一切衆生悉有仏性」(すべての生きものには仏性がある)とあるから、「犬には仏性があるか」と問われれば、経典の知識からいって「ある、なし」で答えるのが普通。それを「無」と答えたところに、この公案のポイントがある。「隻手音声」と同じく分別のおよばぬ世界へ入る関門である。
修行僧が仏性の「ある、なし」や虚無(ニヒリズム)の「無」にこだわれば、どう工夫してもこの公案は透過できない。師家は、「無」の一字が禅の基本である「真空無相」(自我を捨てる。本来無一物)そのもであることを示唆する。「ある、なし」ではなく、絶対的な「無」である。修行僧は四六時中「無」と格闘するうち、やがて三昧の境地に入ってくる。外部の物音も動きも気にならず、自分の内部の妄想も消え果て、真空無相の静寂が訪れる。「禅定」である。無門慧開のいう内外打成一片の境地。自己と対象の「無」字が一体となっている。そして、なにかのきっかけで「無」が爆発したとき、悟りが開けると無門は教えている。
今回は公案語録を紹介しましょう。
・・・隻手音声・・・
両掌相打って音声あり
隻手になんの音声かある。
「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手ではどんな音がするのか。」
白隠慧鶴が創始した有名な公案である。新到(新参の修行僧)は最初に、師家からこの公案か「趙州無字」の公案を与えられることが多い。
片手の音など聞こえるはずがない。と、考えるのが自然で、もともと知識や常識とは無縁の問いかけなのだ。この公案をぶつけることによって、師家は修行僧を分別のおよばぬ世界へ直入させようとする。
学人(修行僧)は迷う。これまで見につけてきた論理や知識が邪魔をして、なかなか新しい世界へ直入することができない。作務のあいだも坐禅のあいだも「隻手」がちらつき、「なんだ、なんだ」と疑問で身を焦がす。頭のなかだけでなく、体全体が疑問の塊となる。悟りにいたる直前の「大疑団」の状態である。
手や音にこだわるからいけないのだ。これはあくまで例にすぎない。畑を耕す自分を考えてみればよい。夢中になって鍬を振るうちに、周囲のことなど気にならなくなり、我を忘れ、いわゆる三昧となる。畑の土と鍬を振るう自分が一体となっている。「両手を打った音」とはまさにそれだ。
自己と対象が一体とならなければ妙音は出ない。「片手の音」とは、まだ自己と対象が一体となっていない、本来の自己を見失ったままの状態である。思慮分別を捨て、「本来の自己」を究明するおとから禅の修業が始まる。
・・・趙州無字・・・
趙州和尚、因みに僧問う、
「狗子に還って仏性有りや也た無しや」
州云く、
「無」
唐代末期の禅僧趙州に、ある僧が聞いた。「犬にも仏性がありますか」。趙州は答えた。「無」。この公案は「隻手音声」と並んで、所関(はじめて与えられる公案)に使われる第一のものである。
訓は秋月龍のものに従っている。
その教えによると「無」は「なし」と読むのではない。あくまで「む」と読む。「涅槃経」には「一切衆生悉有仏性」(すべての生きものには仏性がある)とあるから、「犬には仏性があるか」と問われれば、経典の知識からいって「ある、なし」で答えるのが普通。それを「無」と答えたところに、この公案のポイントがある。「隻手音声」と同じく分別のおよばぬ世界へ入る関門である。
修行僧が仏性の「ある、なし」や虚無(ニヒリズム)の「無」にこだわれば、どう工夫してもこの公案は透過できない。師家は、「無」の一字が禅の基本である「真空無相」(自我を捨てる。本来無一物)そのもであることを示唆する。「ある、なし」ではなく、絶対的な「無」である。修行僧は四六時中「無」と格闘するうち、やがて三昧の境地に入ってくる。外部の物音も動きも気にならず、自分の内部の妄想も消え果て、真空無相の静寂が訪れる。「禅定」である。無門慧開のいう内外打成一片の境地。自己と対象の「無」字が一体となっている。そして、なにかのきっかけで「無」が爆発したとき、悟りが開けると無門は教えている。