B年.主の洗礼
表紙
「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」
入祭唱
「主が洗礼を受けられると、天が開け、神の霊が鳩のように下り、父の声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの喜び」」
第一朗読(イザヤの預言)
「わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」
答唱詩編
「喜びに心を弾ませ、救いの泉から水を汲む」
第二朗読(使徒ヨハネの手紙)
「“霊”と水と血」
アレルヤ唱
「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」」
福音説教(マルコによる、1・7-11)
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
「公現とは、世に見せること。イエスが洗礼を受けた。公になる前に。その意味は?わたしたち自身の洗礼とどう違うか?ヨハネの洗礼、イエスの洗礼。どう違うのか?ユダヤ教とキリスト教は渾然一体。区別がつきにくい。福音の中で、違いが打ち出される。マルコ。「わたしは水で、…、聖霊で、…」。或いは、「聖霊と火」。水と聖霊に違いは?エゼキエルの預言で、救い主の預言。「罪の償い、悔い改めの徴」として。「わたしたち、自分自身が変えられていく。」 救いの特徴・救い主の特徴。エゼキエル。「わたしは、石の心を取り除き、肉の心を与える。」 生き生きとした心。聖霊・天からの声。御父から御子へのメッセージでもある。「神の愛する子」になっていく。素晴らしい特徴。それが洗礼の時に伝わっていない。親は子に洗礼の時に、「神から愛ざれている」ことを伝えていない。「神の子」となるのは、素晴らしい恵みである。それは単に、「カトリックのメンバーになる」ことではない。その程度にしか思っていないのではないか?「神から愛される子供になった。」 その実感がないのではないか?「聖霊と火」。水は上っ面だけ。聖霊と火は、わたしたちを中から変えていく。鉄の棒を考える。それは、冷たい・固い・曲がらない。わたしたちは、聖霊によって中から変えられる。火の中で、他の物が熱くなる。火の中で真っ赤になる。すると曲げるのは簡単になる。洗礼の恵みも同じ。中から変えられていく。冷たい鉄=冷たい心が、火によって、温かい鉄・熱い鉄=熱い心に変えられていく。わたしたちもそうなっていかなくては。神の御心に適う子になる。神の掟を守る。神様から愛されているのだから。神様を愛そう。それを、子供に伝える。「神様から愛されているのだから、神様の心を悲しませないようにしよう。」 朝、それを思い、夜、寝る前に反省する。「神様から愛されている」のは、大きな恵み。「それを忘れてしまう程、大きな恵み」。 自身の信仰を伝えていかなければ、レッテルだけになってしまう。教会から、子供・若い人がいなくなる。それは、「神の子供である」を伝えていない。その結果ではないか?「神様から愛されている」 それは、お伽噺・童話ではなく事実。信じなければ。宇宙万物を創って、人間を創った。人間を通して、ご自分を現された。親・兄弟から愛されている。その体験を子供に伝えて行く。メンバーや名前じゃない。「神様に愛されている事実を悟る。体験を実感する。わたしたちはもう、神様の子供。神の信仰を生きよう。神の御心を生きよう。神の御心を毎日繰り返しつつ生きて行く。聖霊によって実現していく。何故、洗礼を受けられたか?御言葉を読みながら、それを確かめていきたい。何故、イエスが洗礼を受けたか?確かめていきたい。」
共同祈願
「神よあなたに息吹を地の表に」
拝領唱
「ヨハネはイエスについて証言して言った。「わたしは、この方が神の子であると証しする」」
notes
1 信徒会。
一言
屁理屈!って言われると思う。が、通常、人に本当に愛されてると感じることが出来ずに、神に愛されていると感じることはなかなか難しいと思う。神様はあなたの髪の毛一本までも数えられて・野の花や鳥を・1アサリオンの雀さえ…。…。人々による迫害の中、殉教者は、神に愛されていると言う確信の中で死んでいきました。聖霊の恵み。それだけが願いです。火に精錬されなければ・・・。
表紙
「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」
入祭唱
「主が洗礼を受けられると、天が開け、神の霊が鳩のように下り、父の声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの喜び」」
第一朗読(イザヤの預言)
「わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」
答唱詩編
「喜びに心を弾ませ、救いの泉から水を汲む」
第二朗読(使徒ヨハネの手紙)
「“霊”と水と血」
アレルヤ唱
「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」」
福音説教(マルコによる、1・7-11)
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
「公現とは、世に見せること。イエスが洗礼を受けた。公になる前に。その意味は?わたしたち自身の洗礼とどう違うか?ヨハネの洗礼、イエスの洗礼。どう違うのか?ユダヤ教とキリスト教は渾然一体。区別がつきにくい。福音の中で、違いが打ち出される。マルコ。「わたしは水で、…、聖霊で、…」。或いは、「聖霊と火」。水と聖霊に違いは?エゼキエルの預言で、救い主の預言。「罪の償い、悔い改めの徴」として。「わたしたち、自分自身が変えられていく。」 救いの特徴・救い主の特徴。エゼキエル。「わたしは、石の心を取り除き、肉の心を与える。」 生き生きとした心。聖霊・天からの声。御父から御子へのメッセージでもある。「神の愛する子」になっていく。素晴らしい特徴。それが洗礼の時に伝わっていない。親は子に洗礼の時に、「神から愛ざれている」ことを伝えていない。「神の子」となるのは、素晴らしい恵みである。それは単に、「カトリックのメンバーになる」ことではない。その程度にしか思っていないのではないか?「神から愛される子供になった。」 その実感がないのではないか?「聖霊と火」。水は上っ面だけ。聖霊と火は、わたしたちを中から変えていく。鉄の棒を考える。それは、冷たい・固い・曲がらない。わたしたちは、聖霊によって中から変えられる。火の中で、他の物が熱くなる。火の中で真っ赤になる。すると曲げるのは簡単になる。洗礼の恵みも同じ。中から変えられていく。冷たい鉄=冷たい心が、火によって、温かい鉄・熱い鉄=熱い心に変えられていく。わたしたちもそうなっていかなくては。神の御心に適う子になる。神の掟を守る。神様から愛されているのだから。神様を愛そう。それを、子供に伝える。「神様から愛されているのだから、神様の心を悲しませないようにしよう。」 朝、それを思い、夜、寝る前に反省する。「神様から愛されている」のは、大きな恵み。「それを忘れてしまう程、大きな恵み」。 自身の信仰を伝えていかなければ、レッテルだけになってしまう。教会から、子供・若い人がいなくなる。それは、「神の子供である」を伝えていない。その結果ではないか?「神様から愛されている」 それは、お伽噺・童話ではなく事実。信じなければ。宇宙万物を創って、人間を創った。人間を通して、ご自分を現された。親・兄弟から愛されている。その体験を子供に伝えて行く。メンバーや名前じゃない。「神様に愛されている事実を悟る。体験を実感する。わたしたちはもう、神様の子供。神の信仰を生きよう。神の御心を生きよう。神の御心を毎日繰り返しつつ生きて行く。聖霊によって実現していく。何故、洗礼を受けられたか?御言葉を読みながら、それを確かめていきたい。何故、イエスが洗礼を受けたか?確かめていきたい。」
共同祈願
「神よあなたに息吹を地の表に」
拝領唱
「ヨハネはイエスについて証言して言った。「わたしは、この方が神の子であると証しする」」
notes
1 信徒会。
一言
屁理屈!って言われると思う。が、通常、人に本当に愛されてると感じることが出来ずに、神に愛されていると感じることはなかなか難しいと思う。神様はあなたの髪の毛一本までも数えられて・野の花や鳥を・1アサリオンの雀さえ…。…。人々による迫害の中、殉教者は、神に愛されていると言う確信の中で死んでいきました。聖霊の恵み。それだけが願いです。火に精錬されなければ・・・。