「ハートウォーミング」の擬装 より以下抜粋。
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辺見庸さんが相模原やまゆり園障害者殺傷事件のインタビューでこう書いていました。
「さとくん」は、暴力に突き進んだ時の論理を、「そうではないのかもしれない」と保留することができなかった。何かを保留すること、抑制するには骨組みのしっかりした知性が必要です。それは「世間」や「社会」に同調せずに「個」として生きようとする態度にも関わる。生き方における峻厳さが問われることです。
京都新聞.pdf(click)
宮台真司氏が対談で触れていた、西洋の古い思想における「自分の視点と神の視点を分けて考える態度」
にも通じると感じます。
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「そうではないのかも知れない」という抑制の利いた、「 間 」がある人が好きです。
それは知性があるということだから。 不寛容の時代 不寛容の時代② 認知的不協和 混同しない分別
間がないと、人のやったことを 自分の狭い判断で反射的に否定したりいかにも浅い低次元な評価を
下したりします。そういう人が苦手です。教養がないということだから。にも関わらずそういう人ほど
上から目線で自信満々に鋭利な言葉を、相手に向けてきます。人のやったことや言ったことを
自分のメンツに絡げて捉えてその場で感情的に報復をするなどというのは論外のレベルだと思います。
私は「発達障害者」の代表ではないけれど、多くの「発達障害者」にとっても
「 間 」がある人とはうまく信頼関係が築けて、「 間 」がない人とは関係が難しいと思います。
否定や攻撃や安易な低評価を向けられるからです。家族、友達、先生、同僚、上司、雇い主…
だから、発達障害者は人の知性を炙り出す試験材のようだと私は感じています。
また演奏者を選ぶ繊細な楽器にも例えられます。
発達障害に関わる支援者や先生や保育士や友人は、この知性がある人であって欲しいです。
そうであるならばその出会いは素晴らしい至極のものとなり、そうでないならば、その出会いは
悲惨なものになりやすいでしょう。
「 間 」があるとは、抑制が利いていて保留するということです。相手が自分の予想しないことを
した時に即座に否定するのではなく「 ? それはどういうことだろう ? 」と落ち着いて
続きを見ようとすることです。続きとは、その場の1分、1日、1週間、1年、10年なのかもしれません。
自分の見えてる狭い基準でしかものを測れないなら、即座に低評価を下し烙印を押します。
新自由主義の影響を強く受けた人達の態度がそうだと思います。
tiny container
その反対の態度のことです。