互いの能力を共有するの最後の部分にこう書きました。↓
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互いに競争させられていて相手の能力が脅威である場合にも、他人が無知で無力なままで
いることを望む。とても貧しい人間関係ですね…
健全な人間関係ならば、相手が知っていることや得意なことを、共有の財産としてシェアーしようと
する。誰かが得意なことやよく知っていることを喜んで「すごいね」「ありがとう!」と言って
その恩恵をみんなで分かち合う。誰かとは、AさんBさんCさん……Zさんみんなである。
それが、健全な関係。いつか大古の世界には、こんな人間関係があったに違いない。
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が、より正確に書き足します。それは厳密には、
「ありがとう!」とも言わずに、互いの能力をみんなで使い合うのが当たり前なのが、
一番健全で自然な関係だということです。ありがとうと言うのは、日本的な礼儀の発想が
漂っています。けれど、私が真に健全だと感じる社会は、ありがとうなどと言う習慣もなく
それぞれの能力やfine playをみんなで共有し合って、またそれぞれの弱点や苦手ややり損ないを
カバーし合って、恩着せや恩借りなどがない世界です。
「●●さんのすることは、”ありがとう”が多いなぁ」「◇◇君のすることは、”ありがとう”
が一度もないなあ」と言うようになると、おかしなことになります。
「お前はわきまえろ」「私に逆らうのか」 調子に乗って権力を振るい出す者が出てくると、
みんなでその人を止める、そんな社会が遥か昔にあったと聞きました。
「●●さんって獲物とってくるの上手い」「●●さんならできるかもしれない」等と言い合っても
だから●●さんが偉い 礼儀をわきまえろ 頭(ず)が高い とはならない社会です。
そしてそういう発想をして君臨しようとする調子乗りにはみなで社会的制裁を加える社会です。
わきまえるべきは、その調子乗りの方なのです。
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この例えは違うかなぁ。
自分の心臓に「いつも四六時中働いてくれてありがとう」と言ったり
目に「あんたはよーけ働いてくれて感謝やで」と言ったり
へそに「あんた、ただついてるだけやん 目さん心臓さんと大違いや 弁えや」と言ったり
することなく、それぞれの能力を使って生を営むように。違うかなぁ。
右手の親指を怪我して使えなかったからと言って、他の指達や身体の部位達が親指に
「お前一週間働かんせいで おれらがカバーしたんやさかい、穴埋めせなあかんで」
「詫びも礼も言わんのか。」とか言わないでしょう。