天然の社会運動家の続き。
既存の価値判断基準を批判して、別のものを提示して、その実現を目指して日々活動する
社会運動家は、知的で、元から頭がいい人達が多い。難しい本をたくさん読んで知識豊富である。
しかし運動家自身も生まれた時から構造の中にいて、その影響から自由な人など誰ひとりいない。
しかも運動家は元々頭がよく、小さな頃から、既存の価値基準において優秀たるよう無意識では
してきて実際に優秀だからその価値基準での優秀者になる。一方で、顕在意識においては
その価値基準を批判し否定して、別の価値観を目指そうと働きかける。それが運動家の仕事。
無意識では既存の価値観にどっぷり縛られ優秀に適合しながら、それを否定する思想を
意識下で明達に語る。運動家は矛盾の宿命。意識と無意識は違う。
顕在意識において知的に思想を精緻に紡げても、無意識の意識は理性でコントロールできない。
ダブルバインド状態を自分にも近くにいる他人にも引き起こしてしまう。
「天然の運動家」とは、社会運動などしていなくても、生きてるだけで自然に別の価値観や世界を
体現し影響力を及ぼしている人のことである。例えば、fenimismなど勉強したことがなくても、
女の役割とされていることを壊滅的にできないから、周りの男の人達がやって、彼らの家事能力が
当たり前に発達したりである。天然の運動家は知的で有能な運動家と違って、その価値基準において
逆立ちしても優秀になれなくて、真性でできないので、運動などしなくても素で別の世界を作りだす。
その状態が当人にも周りの男性達にも日常で自然になっている。「ごめんね」とか負い目や
劣等感を感じている暗さはなく普通にうけとっている風景。それを既存の常識にどっぷり
浸かった人達たちに見せ、衝撃を与え、彼らが感じたことのない心地よい風を起こす。
頼まれなくても最高の社会的問題提起になっている。そういうのを垣間見た時の、はっとする感覚。
天然の社会運動家は、知的で聡明な運動家と違って、意識と無意識の乖離がなく矛盾がないから
ダブルバインドを自他に引き起こすことなく、健康的である。
意識と無意識が逆を向いていては、どんなに知識豊富でも頭脳明晰でも、ことを体現できない。
頭と腹がつながっていないといけない。意識と無意識が一致していたら
知識がなくても理論を知らなくても壇上で講演しなくても紙面で文章にしなくても、
生きてるだけで違う世界を体現し、人に提起し、どんな弁論よりも揺さぶることができる。