自分の運営する情報ビジネスの会員たちに「学歴や社歴といった属性で人を見る時代ではない」
と発信する人が、自分の学歴や社歴を盛大に盛っていた件。大事じゃないなら、なぜその情報を
盛って言うの? 答え:本人が一等それが大事だと思っているから。
言ってる主張とやってることが真逆に矛盾する現象については、社会運動分野においても見られた。
差別をなくす運動を声高にしている人が、まさにその差別意識をもっていたり
社会で幅を利かせている価値基準にNoと訴えているその人が、その価値基準に
自分が適合していて中でも上を行くことを執拗にアピールしたりしているのを見た。
流れを変える 内なる植松 差別そのものの否定 誰をも差別させない努力
意識を変える近道 意識を変える近道② 君、欺瞞に堕ちること勿れ
在日韓国人差別や差別に反対する運動をしているその人は、その発信記事に「自分は違う」
という情報を必ず入れていた。自分は在日ではない 自分は出身ではない と。
その知らせ方は、間接的かつ確実に「自分は違う」ことが読み手にわかる形となっていた。
それを言うことでなにが言いたいのかを知ろうと読み進めていっても、一向に、
その文の意味は、自分が当事者ではないことを知らせる目的以外に、見当たらなかった。
”私は差別とこんなにも闘っています。※私は違いますけど。”
本当に差別に反対している人達は、民/非民 障害者/健常者 と分けること
そのものに怒っていた。「私が非民で、あの人が民だと一体誰が決めたの?」
「私が穢れてなくて、あの人が穢れていると、誰が決めたの?」
「精神障害者と健常者、その境界線は、一体なに?」「私が健常者?誰が決めたの?」と。
でもその「運動家」はそうではなくて、自分は被差別当事者ではないことを
必ず知らせていた。本当にその差別を理不尽でおかしいと思っている人達は
「在日」「民」「障害者」と「誤解」されても、「だったらなに?」と言える人達だった。
差別はいけないと言いながら、その人自身がその価値基準でものを測りマウントするという癖は
これ以外の色々な差別問題においても見られた。例えば、#Metoo、男女平等の社会思想を
表明しながら、セクハラ被害者の前で、「私は男を切らしたことがない」と自慢したりである。
本当に#Metoo運動をしている女性達は、男性遍歴自慢やモテ自慢などをしたりしない。
仮にモテたとしても、それを自慢になるとは思っていない。
またその人は権威主義にNoと言いながら、その運動分野での著名人との繋がりを
「大親友」とか盛って言って自分の権威づけに利用することも頻繁にして、
自分の大きさを「わからせよう」と必死になっていた。 yarukotoga tiisai desu..
また、その著名人と自分を同列に語っていた。turano kawaga atui desu..
そういうことをすればする程、尊敬とは程遠くなっていくのがわからずに
そうした箔付けに一向に靡かない相手だと、より一層必死になり、
思い通りにならないその相手に今度は報復をするようになっていた。jikoai funnu
●●さんは私の大親友 だから何?
××さんを知らずして●●運動を語るな その人を知らなくても素晴らしい人達は各地にいる
△△さんは、昔からの同志 相手は全然そう思ってないみたい
自らも精神科に通院して薬を飲んでいる人で、障害手帳のあるなしに異常にこだわって、
手帳を持っている人に対して「あなたは障害者」だと言い「私は障害者ではない」と
躍起になって主張する人も、上に書いた「運動家」と同じ団体で見たことがある。
その相手を「障害者」扱いしてその人の言うことを障害症状として無効化して
やり込めるために、手帳のあるなしを全力で盾にしていた。 hikaemeni itte ku○○ desu..
その団体には、精神科に通院している人や「発達障害」の肩書をもつ人は何人もいて、
仲間同士のはずなのに。社会運動団体の中で、そうやって差別してマウントする光景。
障害って、手帳のあるなしで決まるわけではないのに。例えば、精神において健常とは
いかなる人なのか。一体、誰が何をもって「私は精神の健常者です」と言えるのか。
障害と健常を分けるリトマス紙はない。
#Metooに賛同の意を発信しながら、DV的な俺様思考がだだ漏れになっている男性も
その団体にいた。どんなに理性的に弁論を滑走させても、彼の中の無意識の差別意識、上から目線
は隠しきれておらず、なにかのきっかけでそれは暴発的に露呈することを繰り返していた。
この記事で例を挙げた、言ってることとやってることが分裂している人達は、すべて同じ
活動団体の構成員で、一番最初に挙げた人がリーダーである。
このように、世間の価値基準を変えようとLOUDLYにSPEAKしていても、自分の中の意識は
俗人以上にその価値基準を強く持って、マウンティングしている人達がいた。
hollow inside
そういう欺瞞は、露骨な差別よりも厄介で有害だと私は考えている。
自分の本音の意識が、知性の皮を被った弁論と真反対に乖離せずに一致している方が
社会的害悪は軽いと考える。これらが分裂している方が、本音の意識を歪めて偽装している分、
それはむしろ水面下では強力化している傾向がみられたからである。偽装して嘘を何万回雄弁に
述べても本当にはならず、むしろ「ないんだ」と押し通している意識は、肥大化していく。
「私に差別心などない」