平成24年(2012)になされた佐藤健志氏、西部邁氏、藤井聡氏の対談でのやりとり。
とても興味深く、共感します。※かれらのすべての思想に賛同するものではありません。
:::::::::::::::太字は筆者による:::::::::::::::::::::::
佐藤健志:強靭化とは、危機意識を的確にもつということから始まると言う藤井(聡)先生の主張を踏まえて考えて行くと、強靭化への妨げとなるものはなにかと。最大の障害は、「危機意識なんか鈍くていい」とか「持たなくていい」という発想が一番危険であると。 ……(中略)……
ここで、キッチュという言葉を提唱したい。キッチュとは、一般受け 俗受けを狙ったくだらない作品とか 安っぽいチープな虚飾性 などと言われるが、実は元々の意味は 自分たちのあり方の中に不都合な要素とか矛盾した要素 言い換えれば自分たちの正しさを否定するものが全然存在しないかのようにふるまうこと これがキッチュである
西部邁:自己満悦 自分に満悦しちゃってる状態のことね?
佐藤:そうです ただ、本当に満悦しているというよりも、その矛盾した要素はないぞないぞないぞと抑圧を続けると。天真爛漫に満悦しているというよりも、自分の中にある矛盾とか、相反するものを必死に抑え付けて、ないんだ、ないんだ、ないんだ、と言い続けること これがキッチュなんです。だから安っぽいわけです。
西部:なるほどね
藤井聡:その「ないんだ」というのは、最初は意図的なこともあるのかも知れないけれども、そのうち完全に、これは精神病理なんかでよく言われる抑圧 というものが起こって、自分が抑え付けているという自覚すらほとんどなくなっていったまま抑え付けてしまうと で、時々なにかの矛盾を目にした時、例えばその物語のなにかのほころびを見た時に、「あ、やばい」という、その抑え付けていた事実を気づきそうになるんだけどその時に、必死になって過剰反応でそこを抑え付けて
佐藤:ムキになって頑張ろうとする
西部:ガジェットってね、これねガジェットってのは、安っぽい機械的な小道具
佐藤:キッチュな物です 物がキッチュになるとガジェットになるんです
西部:これ案外ね、英語人種 随分前からアメリカですらね 現代社会ってのはね 高度経済成長だGNPだと言ってるけど 作られているものの大半はガジェットじゃねえかっていうね そういう意見が発表された。日本で非常に少ないんですよね それは それを広げて言うと もっと文化的なことも含めて佐藤さんはキッチュ …(という概念を提唱している)
藤井:キッチュ これこそが強靭化の真逆の脆弱化の本質なんだと改めて感じた すると、その反対の強靭化とはなにかと考えると、こういうことが言えるんじゃないか。人間どっかで、すべての情報をすべての時間帯において処理し尽くすことは不可能なのでやはりどこかでキッチュ化するという宿命を帯びているんだと思う。どっかで簡便化する、簡略化する、抑圧化すると それはそれである程度仕方がないことだとしても、どっかでほころびがあった時に、それを見て「これはやばい」とヒステリックに抑え付けるのではなくて、物語そのものを変換していくという方向に努力を向け変えて、そこでシステムを変えて、また別のキッチュを作る したがってキッチュで作り上げられる虚構的な物語 システムそのものを、暫定的なものだのだと常にどっかで思いながら、その道具を使っていさえして、でなにかがあったらどんどん循環させていくことができれば、これは強靭化につながるんだろうと でキッチュな人っていうのは、これが面倒くさいとか やりたくないとか 生きることそのものに対して面倒くさがっているというのが、脆弱でキッチュということ
佐藤:自分の弱さに直面できている人は強靭。で、キッチュな人っていうのは弱さに直面すると、全人格が崩壊するんじゃないかという恐怖に駆られて、ものすごい勢いでムキになって抑圧する。強靭の反対概念は脆弱です。しかし、強靭化の反対概念はキッチュです。
:::::::::::::::(中略):::::::::::::::::::::::::
西部:キッチュってのは、ものすごい人間精神としてのfragile であると同時に汚いですね 堕落
藤井:美醜の点で言うと完全におぞましき存在である だからこそ英語で俗悪vulgarという意味がある
佐藤:自分の中に醜い要素があるんじゃないかということを絶対に認めないという醜さに陥っている。表面がいくら綺麗でもだめなんですね
藤井:キッチュの問題で改めて感じたのが やっぱり考えるっていうこと=強靭化ということなんだろうなと感じた。考えるって本当に普通の言葉 誰だって普通に考えてるようですけど、実は考えているかのようなふりをしているだけでなにも考えていない ゾンビと言ってもいいと思うんですけどそういう人のことをキッチュと言えると思う 考えるとはどういうことかと言うとなにかがほころびがあった時になにか物語を変える とか解釈を変えるとか これはしばしば心理学で言われるが sence maker:意味を作りだす decisionをmakeするのではなくsenceをmakeするということをしばしば心理学では言うが 考えるというのは実はdecisionをmakeするのではなくsenceをmakeすること そうすると 自分がこういう意味で弱いなっていうことを引き受けた上で、じゃあそれを前提にどういう風にするかっていう また意味を作り上げたりとか そういうことでどんどん流転するというか循環していく これが考えるというものの本質で、これを止めちゃうとキッチュになって脆弱化してvulgarになってって 逆に循環していくとどんどん色んな状況にも対応できて強靭化していくということになる
西部:考えるってことは なにか疑うっていうことでしょう でも考えるためにはある種の前提が必要なわけですよね 前提っていうのは論理的に言うと山ほどあるわけですよ そうするとどれか選ぶでしょ 選ぶってことは信じるって程じゃないけど 少なくとも信じたいと思うっていうね 考えることを言うとね、疑うためには何かを信じないといけない でも果たして信じられることあるかどうか(口述ママ)を今度考える 考える為には 今言った循環の中に身を置くというね 精神論的に言えば恐るべき危機的作業なわけ 考えるっていうことは
〈対話は続く〉
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本当にそうだと思います。考えるというのは、本当はとてつもなく複雑で終わりのない循環の中にいること。
考えてるふりしていつも猛々しく 歯切れよく 勇ましく言い切る人は、実はなにも考えていなくてキッチュである。
ほころびや懐疑を抑圧して虚勢で押し通そうとする面倒くさがりで雑な姿勢は脆弱で、
弱さを認めて向き合って、常に今のシステムを暫定的なものだと 間 を置きながら
探っていく思慮深い態度こそ強い。したがってそういう人がリーダーにふさわしい。
実際にそういうリーダーをもつ国や組織は強靭さを備えています。
思慮深く繊細であることは必須の資質。虚勢を張る硬直的なイキリは非常に弱いのです。
Pretenders speak LOUD.
知ってた*^^*