革新、保守、いわゆる左、右、Metoo、オーガニック、環境保護、動物愛護、虐待防止 教育理念 etc…
人の立場信条には色々ありますが、それが違っていても、お互いの態度が純粋であれば、人と人は尊敬し合え、
通じ合うものがあると思います。私は立場や信条が違っていても、その人が純粋な態度であれば、その人のことが
好きになります。私は晩年の西部邁氏が好きです。彼の思慮深さに感銘をうける部分は多いし
どうしても賛同できない無理な考え(1番は核武装)もあります。しかし彼の純粋な態度が、人として好きです。
立場があまり一致しない論客でも、誰と話す時にも真っ直ぐで誤魔化しや卑怯さがない人は、他にもいて、
ひたむきな誠実さを感じるから好きです。中野剛志さんも好きです。彼はかつてTV番組で「放送事故」を起こしました。
その純粋さゆえの嘘のない態度を、「マナーが」「大人としての良識が」などと言って揚げ足とりが起こりました。
かたや立場がかぶっていても、その態度が純粋でなければ 通じ合えないし信頼もできないと感じます。
純粋でないとは、その思想、信条を自分の言葉で言っているのではなくて、不安や劣等感や満ち足りなさを
誤魔化すためにそれに依存していたり、なんらかの理由で中毒的にしがみついている状態のことを指します。
劣等感や敗北感を合理化して擬装している状態下では、本来の思想や目的が平然とけがされます。
本来そのようなことに使う言葉や概念ではないものを浅知恵的に引用して、無駄な屁理屈をふりかざして、
誰かを場当たり的に攻撃して感情処理がなされます。そういう人のことを、宮台真司氏は「へたれ」「クズ」と呼びます。
純粋であれば、そういうことを、少なくとも平然とはしないです。思想をけがすことに抵抗がありますから。
誰しも人間だから、そういうことをしてしまうことはあっても、平気ではしない。
それを常習的にやってのけるというなら、かれの思想は虚であることを物語っています。
自分の内から出てくる思想を平気でけがすことはできないはずで、できるのは内発性ではないからです。
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純粋であることが大事で、でなければ議論など、できないと思います。
ただの卓球勝負になってしまいます。
私はどんな立場であれ、純粋な人を信頼し、尊敬し、好きになります。
山本太郎も好きです。国会で1人で闘って来た彼は侍だと言う人達がいて、私もそう思います。
TVに出たら、「放送事故」を起こします。