自己欺瞞についてネット検索をしていたら、大変興味深い記事を見つけました。
心理セラピスト足立由布子さんの書かれた記事 ↓
お説教をする人ほど、それを生きていない・お説教の自己欺瞞 より、サラダの写真の心理実験。
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ある心理実験で、被験者を二つのグループに分け、一つにはファストフードのサラダの写真が載っているメニューを、もう一つのグループにはサラダが載っていないメニューを見せたところ、サラダが載っているメニューを見た方が、高カロリーのものを頼んだ割合が高かった、というものがあります。
つまり脳は、サラダの写真を「見た」だけなのに、「自分は健康に気を遣っている。だから高カロリーのものを食べても大丈夫」と思い込んでしまうのです。
これが、セミナーを受講しただけで勉強した気分になったり、facebookで人道的な記事をシェアしたり、「いいね」を押しただけで「自分は人道的な人間だ」と思い込んでしまったりになります。実際には何もしていないのに。
相手に教訓を垂れ、教え導いた気分になると、実際には何も実践していなくても「自分は正しく生きている人間だ」と自分で自分を騙してしまいます。
「正しく生きている人間だということにしておきたい」という自己欺瞞があります。
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本当にそうだな!と思いました。人に説教したり啓蒙したりしている人達は、自分が足元で
その思想を実践していなくても、いつも口で言ったり活字にして書いたりしていたら
それを実践している気になるのだと思います。よく、人々に道を説き啓蒙する仕事を
している人の実態のお粗末さについては色んな人達が告発しています。
聖職者、僧侶、教師、大学教授、弁護士、評論家、作家、政治家、警察、…
この記事の中で、お説教をしたがる人ほど、実はそれを実践してはいない、と書いてあり、
納得です。以下の記事 ↓ も大変面白く、実体験に照らし頷きながら読みました。
私が当ブログでもたびたび引き合いに出しているカルト状態の集団での教祖の信奉者が
まさにそうだったんです。
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「立派なことを言う人」についていきたくなる心理
お説教をすると即、人が離れていくのなら、誰もお説教をしなくなります。しかし、人間の世は複雑です。
「立派そうなことを言う人」についていきたい人も、この世には少なくありません。
自分の価値観・信念が漠然としていたり、自分がそれを生きている実感が薄いと「これでいいのかな・・・?」と自分の生き方に自信が持てなくなりがちです。
「上から目線で物を言う」態度は、時として「堂々として自信があり、立派そうに見える」ことがあります。本当に自信がある人は、上から目線で物を言ったりはしないのですが。
「立派そうなことを言う人」に共感し、賛同しただけで「自分もその仲間だ、それを生きている人間だ」と思っておきたくなる、サラダの実験と同じ心理が働きます。
一旦この(まやかしの)安心感を得てしまうと、人は中々この安心感を手放そうとはしません。自分から騙されてしまうからくりがここにあります。
こうして「立派そうなことを言う人」の取り巻きが出来上がります。
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そのカルト状態の集団で君臨している教祖様とその取り巻きは、まさに上記の通りでした。
堂々としていて自信たっぷりに威勢よく断言し、自分が真実を知っている風情で、他の子ヒツジたち(信奉者)に上から目線で弁論してました。でも堂々風、威勢よさげ、自信たっぷり風なふりをしているだけで、実態はとても脆弱な人でした。
私が出会ってきた立派な人の特徴は、その教祖様の逆でした。
上から目線じゃない、とってつけたような堂々さはない、威勢よくない、普通にしてる、
この私がすごい人だとわからせようとしない、メンツを気にしない、幼稚なプライドがない、
誰からでも学ぼうとする、正直に対話する…。
だから私にはその教祖のふるまいがおかしいのは歴然でしたが、その閉鎖的
コミュニティ内で信奉者がその人を賞賛し神輿に担ぎ上げていました。
偉そうな人についていってはダメなのに、ついていく人が多い。
そしてかれらは立派なことを言う教祖に同調しているだけで
「自分もその仲間だ、それを生きている人間だ」と錯覚していたのです。
私は、教祖と取り巻きの人への戸惑いが拭えませんでした。かれらが娑婆圏外で議論している
内容はとても知性的で教養深く聴こえ、大衆とは一線を画すものです。でも、かれらの
真似をしたら絶対にいけないという小さな声がずっと私にささやいていました。
そしてそれは思ってはいけないことだと、戸惑っていました。もし言ったら
「お前は片山さつきか」「世耕と同じじゃないか」「冷徹な自己責任論者だ」という
返しがありありと目に浮かびますし。
戸惑いの中身:何も自分の身近な生活(家庭とか)で実践してなくて、その体たらくは
一般人以下なのに、アジトみたいな場所で立派な精鋭的な批判を語ることで
立派なことをやった気になってる
みたいな感じかな…
社会の落伍者、はじき者になることがダメなことでは全然なくて。日頃の行いを巨大な棚に
ぶち上げて、アジト的な場所で立派なことを語り、やった気になっている
私にはそう映りました。
そして、真似をしないのは正解でした。真に受けてどんなに生活が落ちぶれても
責任など一切とりませんから。カルト集団とはそうです。
耳心地のいい事だけ言って、本人がどんなに堕ちても責任とりません。
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「それを生きているか」の見分け方
「本当にそれを生きている人」と共感しあいたい、或いは、実践し先に進んでいる人から、フィードバックをもらいたい、と考えるのはごく自然であり、健全な判断力を培うためにも大切なことです。
口先だけのお説教ではなく、「本当にそれを生きているか」のチェックポイントを以下に挙げます。
行動を見る
その人を判断するのに最も適しているのは、その人の行動を見ることです。行動だけを見るつもりでいいでしょう。
人間の本音は、言葉ではなく、常に行動に現れます。
何をしているのか、何をしていないのか。
自分が手を汚すこと、痛みが伴うことから逃げ回っていないか。
誤解を受けたり憎しみを買うことになっても、やるべきことをやろうとしているか。
人の矢面に立つことから逃げない人は、信用していいでしょう。
一貫性があるか、裏表がないか
上記の「行動を見る」とも関連がありますが、一貫性があるかも非常に重要です。
一貫性とは、その人の無意識レベルまで、その生き方が浸透していないとできないことだからです。
勿論完璧な人間はいません。どんなに親切な人でも、全ての人に親切に振る舞うことはできないこともあります。
ただそれが「そういうこともあるよね」のレベルなのか、「ちょっと、信じられない」レベルなのか。
「ちょっと、信じられない」レベルとは、例えば「人に親切にしましょう」と口では言いながら、自分にとって有益な人には親切にし、利益をもたらさない相手には嫌がらせをしている、など、意図的な裏表があるということです。「あの人、○○な割には△△だなあ」こういう言葉が数回浮かんで来たら、要注意です。
その人の今の限界を超えて、実践しきれない、ということと、あきらかな裏表があることとは異なります。
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「一貫性とは、その人の無意識レベルまで、その生き方が浸透していないとできないこと」
本当にそうだと思います。だから意識と無意識が一重になることを目指さないといけない。
運動家の中には、一致しないことを居直って、一致すべきだと考えることを青二才みたいに
言って玄人ぶるく○がいました。無意識レベルまで浸透するのは、とても大変かと言うと
そうとも限らないと思います。例えば、生活の中で「こうすべきだ」という日本式の考えを
自分も強く取り込んでいても、全然そう考えていない外国人や日本にいても異なる発想を素で行く
人の習慣を見て衝撃を受けて、「こうすべきだ」というのは思い込みなんだと知って、
囚われから解放され、そのうちにそれが当たり前になることは、私も色々と経験しています。
そしてそれをまた他の誰かが見て「そっか」となって私と同じように囚われなくなるという
影響のしあいも起きます。無意識の「こうすべき」思考が覆る際には、精神の研鑽などは
全く不要で介在せず、ただ心地よく解放されました。だから、無意識レベルまで浸透するのは
遠い道のりでもなく、意外とあっさりと静かに大転換は起きるものだと私は思っています。
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サラダの写真の心理実験のことで余談です。
私はネットとかで素敵なシャンデリア照明とかを見て、その写真を
このブログに貼りつけるだけでも、持ってる気になって、大分満たされます。
脳は、その物を実際に持っていなくても、ブログなどに貼りつけて日頃見ていると
持っているかのように認識し、かなり満足するらしいです。
i am satisfied.