自然な感覚を、へし曲げることが当たり前になっていて、
本来の当たり前の感覚が、奪われていっている。(関連:不自然にへし曲げられた感受性)
君臨している一握りの少数派の人達の利益の為に、そのへし曲げの普及は強化されている。
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昔、学生時代に友人に連れられて、安藤忠雄の講演を聴きに行ったんです。そして、2人の感想は
名高い建築家、安藤忠雄に対する、「え?」という幻滅でした。
「今の若者は、我慢ができない ひ弱だ」「人間は強いのだ 可能性だ 快適など糞くらえ」みたいに
自然な感覚を強烈に否定して、我慢を強いる体育会系主張を我々若者にしていました。
「安藤忠雄って、あんな人だったんだね」 「鬼軍曹みたいだったね」 と話して帰りました。
彼の建築は、全面コンクリートとか、窓が1つもないとか 不自然とか 見ていて不安とか
生活がしにくい とか 全然落ち着かない とか なにかが足りない とか 冷たいとか
人間の動物的感覚に反する「変な」のをいけてるものだと世に打ち出して、
それで利益を受ける人達(セメント業界とか、電力業界)に担がれて寵児となった。
私は彼が賞をとった建築物に、住みたいと思わない。住吉の長屋は、お金を貰っても住みたくはない。
コンクリートは、人が住むのに適さない。夏は熱がこもり冬は凍える。
伝統を否定した奇抜なモダニズム様式(ポストモダンも含む)が、coolなものとしてもてはやされてきた。
私は、快適で 落ち着いて 五感が喜ぶ環境に身を置きたい。長い年月をかけてできた伝統を汲んでいて
あらゆる所が理に適うよう作られていて、おさまりよく調和している建築。
でも、人は、これがいけてる ということにされたら、拷問みたいな選択肢をとったりする。
それは、自分の当たり前の感覚よりも、社会的なアピールをとってなされる。
社会的にそういうことにされたら、人はどんな行動だってとりうるというのは、戦時中に証明されている。
出征してイモムシみたいな包帯姿で返ってきた自分の子どもに「万歳」と言った。
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フジコ・ヘミングのピアノは、自然に五感六感に沁みわたって響き、満たされる。
安心して、子どもと寝ながら聴ける。