集落を北へ
屋根が葺き替えられたばかりの道祖神にお参り
お堂にお参りして終了
寒念仏塔婆
「寒念仏」についてはコトバンクにいくつか解説されている。最も詳細なものは世界大百科事典(旧版)内の寒念仏の言及だろうか。
…一年中で最も寒い時期の修行であるために,厳しい苦行となるが,その苦行が多くの功徳(くどく)をもたらすという信仰が背景にある。一般に寒行には僧侶を中心とした寺堂や道場での座禅・誦経・念仏・題目のほか,鉦を叩きながら民家の軒先や社寺を巡って念仏や和讃を唱える〈寒念仏〉,鈴を振りながら裸足で薄着して社寺に参詣し祈願する〈寒参り〉,冷水を浴びて神仏に祈願する〈寒垢離(かんごり)〉などの所作がある。〈寒念仏〉について,文化年間(1804‐18)に編まれた《会津風俗帳》には〈堂社修繕建立のため,出家又は信心の男女四五人連にて和讃念仏を唱へ,村々相廻り,米少々つゝ出す〉と托鉢の状況を記し,同時期の《歳時謾録》には六斎念仏の行者が城下や無常所を夜行したと記し,《続飛鳥川》には白木綿の単物と頭巻を着し,鈴を振って歩行し,絵札をまく願人坊主の姿を記している。…
※「寒念仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
これらでは民間でどのような信仰がされていたかについてはあまり触れられていない。
寒念仏については「寒念仏供養塔」と検索すると本日記の「“寒念仏”塔」が比較的上位に現れる。20198年2月に記録したものだが、あらためて読んでみると伊那市に多い寒念仏塔について詳細に触れている。確かに伊那市には「寒念仏供養塔」などの念仏塔が多い。ところが現在そうした寒念仏に関する信仰が残っているわけではない。江戸時代も中期以前に盛んとなって明治維新ころにはすでに廃れていた信仰と言えるのかもしれない。実は前掲日記では市内で最も古いものは美篶芦沢の元禄2年銘のものと記したが、寒念仏の石碑が市内で最も多い富県の石造物を見ていくと、貞享4年(1687)の名号塔に「寒念仏供養」と彫られていて、この方が古い。そもそも富県に残されている石造物の中でもこれは5番目に古い。「同行十□」と彫られているようで、民間での信仰が偲ばれる。富県でも北福地の湯戸公民館庭にあるもので、同所には元禄15年の「奉供養月念佛」の碑もある。
さて、昨年3月の「寒念仏について」の記事において「実情を把握するために、実際の行事を訪れてみるしかない」と記した。その寒念仏を訪れてみた。明科塩川原は犀川左岸にある小さな集落。「塩川原農業研修センター」の横にあるお堂に寒念仏の痕跡があって現在も行われていることが解ったのだが、実はこの寒念仏は三九郎と同日に実施されている。コロナ禍前には二日にかけて地区内をふたつに分けて実施していたと言うが、今年は三九郎を行う日に集約されて行われた。三九郎、いわゆる道祖神に関する部分については後日触れるとして、目的であった寒念仏の様子についてここでは触れる。
三九郎の準備が済んだ午前中にその寒念仏は行われた。農業研修センター、いわゆる地区の集会施設を午前10時半過ぎに出発し(お堂から始まると言っても良いのだろう)、まず北へ向かう。集落の北外れに石仏に2体を納めた祠があり、そこへお参りをすると南へ引き返す。祠内にはいわゆる西国坂東秩父百番供養塔が2基納められている。寒念仏にかかわりある石碑かもしれないがはっきりしない。道端に建てられている石仏、石神には必ずお参りして回る。とくに「道祖神」にはすべて回るという意識があり、念仏と道祖神がかかわりあるものかどうかもはっきりしない。いずれにせよ三九郎と同日に実施することから習合したのかもしれない。以前は二日に分けて行われていたということで、この日まわった道順が従来のものと言うわけではないよう。繰り返すが地区内の神仏にお参りしているものの、集落内各戸に念仏が聞こえるように回ったというから、もれなく集落内を回ったものと考えられる。その目標物として石仏や石神があったと思われる。最後はやはりお堂にお参りして終わりとなる。集落内をおよそ40分ほどかけて回った。集落内を回る際に唱えられるのは「なむあみだ なむあみだ そうりゃーなむあみだ」であり、小さな鉦を叩きながらこれを繰り返し唱えて回る。なお、〝音の伝承〟に「長野県安曇野市明科塩川原寒念仏」と題して掲載している。
かつては1週間くらいを毎日行ったといい、いわゆる寒念仏の姿があったと思われる。現在は三九郎が塩川原だけではなく、北隣の原と県営住宅のある地区と一緒に行われているため、この寒念仏もそれらの地域の子ども達によって行われている。もちろん時世であるが、おとなも一緒に回っており、行事そのものは育成会行事で実施される。もう一つ、実施していることを教えてくれた堂内の塔婆のこと。てっきりこの塔婆を持って集落内を回るものと思っていたら、塔婆はお堂内に納められたままだった。一緒に歩かれた数十年前を知っている方も「塔婆は持って歩かなかった」というから、その昔の姿ははっきりしない。塔婆は集落内の大工さんが形をこしらえてくれるらしく、子どもたちが塔婆へ字を書きこんでいるという。その文字は例年通り、
奉 修寒念仏供養塔婆 塩川原子供達
天下泰平 五穀豊穣 養蚕大当 無病息災 交通安全
令和七年 一月祥日
であった。