2005年というからこの日記を始めた年。その年の7月に入ったころ「生業」について触れた別日記があった。下記のようなものである。
生業は、『広辞苑』によると「[1]五穀がなるように努めるわざ。豊作。生産の業また,その作物をいい,「崇神紀」には〈農(なりわい)は天下の大きなる本なり〉とあり,万葉集18巻には〈作りたるそのなりわいを〉」とある。また、「[2]世わたりの仕事,すぎわい,よすぎ。なり。家業をあらわす」とある。農耕社会であった時代を考えれば、おおよそ[1]に示すような、生産の業=生業というものであったと思う。しかし、現代はどうだろう。第一次産業は減少し、いわゆる生産を業としていた人々の生業は、姿を潜めたといってよい。人々が生産(モノを作る)することにより、喜びを味わったのは過去のこととなってしまった。多くの人々は、生産過程の一コマを担ったり、また、その一コマのためにあまりの時間をかけてモノを成し遂げる部材に過ぎなくなり、自分は何をしているか、よくわからないままに生きるための金銭を受け取っているように思う。
そんな現代の生業の姿から、後の世代を担う子どもたちが、生産する、モノを作るという現実を、体感することができるだろうか。口でモノを作れば金がもらえる。そんな流れが、地方、あるいは農村社会の主流になりつつある。そんな世の中にあって、例えば子どもたちに過去の生活を体感させたり、過去を振りかえさせる前に、自らの振る舞いを見直すのが先ではないか。
実はこれ、別日記に記したものだが、本日記の初回投稿記事と同じである。ようは別日記ではなく、本日記でも記された内容。同じ記事をこの後1か月ほど二つのブログに掲載していたようだ。8月盆過ぎからは同じ記事を掲載することはなくなった。
さて、記事に記した「生業」、とはいえ、まだまだ生産に従事する人々はいる。「過去のこととなってしまった」は言い過ぎかもしれない。しかし、モノ造りの衰退は現実のもので、わたしの業界でもはっきりと見えてきている。まず危険な作業はできない。相応の環境を整えないと「請けられない」ということになる。いいや、最近は相応の環境を整えたとしても、「請けない」が当たり前になってしまった。とくに労働環境が悪い現場は、誰も「請けよう」としない。過去には当たり前に請けられていた仕事が、今や請けられないというわけだ。もちろんそうした特殊域の仕事のノウハウが消滅していくことは予想される。そして「金ではない」という答えが聞こえる。どれほど金を積んでも「やりたくない」という世界だ。技術はもちろんだが、経験が消滅してしまう業界。残念だが同じようなことがさまざまな世界に広がっていることだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます