Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

2021-12-02 23:30:46 | 

何を考えているのか、そう思う人との対峙は、そう滅多にあることではない。

もちろんそうした場面に出くわさないようにしていれば、そう思うこともないが、ふだん会う人ではない人と対峙し、予想もしていなかった言葉を吐かれることもある。

「なぜ」と思うものの、例えば怒りを露にしていれば、ただただ謝るだけだ、こちらに何の落ち度がなくとも。

世間にはいいろな人がいるとともに、人との対峙が減ってきているせいか、他人との会話を知らない人は多い。

 

あくまでもふだん会うこともないひととの対峙の例だ。

しだいにむやみに人に声を掛けることに抵抗が生じる。

とすれば、何かを知ろうという意欲にも影響が生じる。

とりわけ民俗調査には影響大である。

この後の難しさを推し量るわけだが、ふだん顔を合わせている人たちにも、けしてそういう例がないわけではない。

ある対峙のあり方によって、人との関係は悪化する。

ふだん顔を合わせているから、前述の例より厄介だ。

どこかにきっかけがあるもので、わたしの中にある事例も、もちろんきっかけは明確だ。

しかし、対峙する相手は、それをきっかけとは思っていない。

以来、相対することに抵抗が生じ、対峙する相手の目は、常にわたしに何かを訴えることとなった。

もはや精神的な負担は、わたしにとって自らのこころをうろたえさせるまで膨らんで・・・。

 

ひとのこころの禍が、ひとを侵していく。


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