何を考えているのか、そう思う人との対峙は、そう滅多にあることではない。
もちろんそうした場面に出くわさないようにしていれば、そう思うこともないが、ふだん会う人ではない人と対峙し、予想もしていなかった言葉を吐かれることもある。
「なぜ」と思うものの、例えば怒りを露にしていれば、ただただ謝るだけだ、こちらに何の落ち度がなくとも。
世間にはいいろな人がいるとともに、人との対峙が減ってきているせいか、他人との会話を知らない人は多い。
あくまでもふだん会うこともないひととの対峙の例だ。
しだいにむやみに人に声を掛けることに抵抗が生じる。
とすれば、何かを知ろうという意欲にも影響が生じる。
とりわけ民俗調査には影響大である。
この後の難しさを推し量るわけだが、ふだん顔を合わせている人たちにも、けしてそういう例がないわけではない。
ある対峙のあり方によって、人との関係は悪化する。
ふだん顔を合わせているから、前述の例より厄介だ。
どこかにきっかけがあるもので、わたしの中にある事例も、もちろんきっかけは明確だ。
しかし、対峙する相手は、それをきっかけとは思っていない。
以来、相対することに抵抗が生じ、対峙する相手の目は、常にわたしに何かを訴えることとなった。
もはや精神的な負担は、わたしにとって自らのこころをうろたえさせるまで膨らんで・・・。
ひとのこころの禍が、ひとを侵していく。
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