Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

朝日を背負う仏様

2006-10-10 06:45:09 | 歴史から学ぶ
 中川村美里地区は、陣馬形山の麓の集落で、現在山へ向う人たちの多くはこの集落から入っていく。車道が整備されてからは、より簡単に山上まで登れるようになったが、徒歩で登る人たちもいる。北よりの奥にある西丸尾は古い歴史を持っている。この集落のもっとも奥の沢入口の道端にいくつかの石仏が立っていて、その中に写真の石仏がある。一見すると頭上に朝日が光っているがことく見えるが、馬の頭が朝日のように頭上に沿って彫られているのである。数えれば7つある。だいぶ磨耗しているから馬の姿にはなかなか見えないが、逆三角に彫られている様子はまさしく馬面といったところだろう。磨耗が激しいから顔の表情も稚拙な彫りかたになっているが、なかなかユニークな馬頭観音である。何体も馬頭観音を見てきているが、こんなイメージのものはほかでは見たことがない。

 『中川村の石造文化財』によると、享保5年の『大草村明細帳』に「屋敷数二百九十七軒・馬数百四十九匹」と記載されている。大草村は現中川村の天竜川左岸の一部にあたり、陣馬形山の麓の村で、西丸尾もその一部になる。この記載によれば2軒に一頭の割合で馬がいたことになるわけで、いかに馬の数が多かったかがわかる。家族同様の位置にあったことはいうまでもない。写真のような像の彫られたものは、1800年前後にもっとも多く造られ、後には文字碑に変化していく。より像立数が多くなるとともに、文字碑に変化するわけだが、像が彫られたものがなぜ文字に変化していったかは定かではないが、どこでも同じ傾向である。同書の中では「簡略化」とこの変化を捉えているが、簡略化とは、数が増えたことで石屋が像を彫っている余裕がなく、もちろん像を彫ることで建立費が高くなったという金銭的な問題による変化だったということになるのだろうか。

 さて、西丸尾には、39基の石造物があって、1700年代に建立されたものが多い。この馬頭観音も「寛政二戌 三月十日」という銘がかろうじて読み取れる。1790年造立という古い馬頭観音である。西丸尾は、和見沢という沢沿いに展開する集落で、陣馬形山南側の雨水は、おおかたこの沢に集まってくる。久しぶりにこの西丸尾を通ったのだが、この馬頭観音から数百メートル上部に、最近砂防堰堤が造られた。まだできてホヤホヤである。ここから天竜川までこの沢はいっきにかけ下る。とくに沢沿いに展開している集落としては、防災という意味で重要なポジションを担っているのだろう。事実、昭和36年の梅雨前線豪雨災害では、この沢沿いも大きな被害を受けたようだ。

 撮影 2006.10.9

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