皇室典範の改正が議論されて、国会へ改正案が提出される間際になってさまざまな論議が沸きあがっている。皇位の継承ということがどれほど歴史があるのか、あるいはそれがどれほど深い意味を持っているか、国民の大方は理解せずして、賛否を回答しているが、果たして歴史上天皇の存在とは何かということも、今の世の中でどう位置づけられているのかというところも、国民は真剣に理解しているのだろうか。そんなことをいうわたしも、理解にはほど遠いかもしれない。しかし、女性天皇を容認するということは、さらに継承が難しくなるような気がしてならない。
朝日新聞の昨日(2/2)の社説に、「発言はもう控えては」という天皇のいとこにあたる寛仁さまの発言を抑制するような記事が見えた。悲しいかな、天皇自らが自分の家を誰に継承するか、というところを論ずることができず、もちろん天皇家もその継承を話し合うことができない、ということが天皇制の悲劇のように思う。寛仁さまの発言は、「皇族は政治にタッチしないという大原則」に反するものだ、と社説は述べているが、それほど天皇というものは、人を離れてただただ象徴として存在しなくてはならないのか。自分の言葉を発することができないとすれば、彼は人間なのかと思わざるをえない。天皇の発言が、それほど国民の心を揺るがすものだとしたら、現代における天皇制の必要性とは何かと問いたい。このごろの皇太子妃に対するさまざまな報道もそうであるが、一国民が、天皇家に嫁いだことで、これほどまでに制約を受け、加えて自論を発することができないとしたら、そんな人権を侵すような象徴が必要なのかと思う。
男女平等を表現するがため女性天皇を容認したり、男女問わず第一子を皇位継承の最優先とするなど、安易に継承することだけを考えて、不幸な「人」を増やすとしたら、天皇制そのものを廃止する、あるいは継承できなくなったらそれで「終わり」でもいいじゃないか、と思う。そんな意味で、朝日新聞の「発言はもう控えては」という抑制には、わたしは同感できない。
朝日新聞の昨日(2/2)の社説に、「発言はもう控えては」という天皇のいとこにあたる寛仁さまの発言を抑制するような記事が見えた。悲しいかな、天皇自らが自分の家を誰に継承するか、というところを論ずることができず、もちろん天皇家もその継承を話し合うことができない、ということが天皇制の悲劇のように思う。寛仁さまの発言は、「皇族は政治にタッチしないという大原則」に反するものだ、と社説は述べているが、それほど天皇というものは、人を離れてただただ象徴として存在しなくてはならないのか。自分の言葉を発することができないとすれば、彼は人間なのかと思わざるをえない。天皇の発言が、それほど国民の心を揺るがすものだとしたら、現代における天皇制の必要性とは何かと問いたい。このごろの皇太子妃に対するさまざまな報道もそうであるが、一国民が、天皇家に嫁いだことで、これほどまでに制約を受け、加えて自論を発することができないとしたら、そんな人権を侵すような象徴が必要なのかと思う。
男女平等を表現するがため女性天皇を容認したり、男女問わず第一子を皇位継承の最優先とするなど、安易に継承することだけを考えて、不幸な「人」を増やすとしたら、天皇制そのものを廃止する、あるいは継承できなくなったらそれで「終わり」でもいいじゃないか、と思う。そんな意味で、朝日新聞の「発言はもう控えては」という抑制には、わたしは同感できない。
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