「仕事」中編より
さて、いまだ現役の自分には、生業上の「仕事」ではない「仕事」がある。前編でも触れたとおり、「仕事で忙しい」と口にしたとき、生業ではない仕事で、本業が「忙しい」と思われるのもいけないと思って、通常「仕事が忙しい」と口にするのは、本業に限るようにしている。あくまでも生業外は、余暇の時間、ということにしないと、わたしにはほぼ自由な時間がないことになってしまう。したがって、生業外は「仕事」ではない、というのが現役である自分の、心うちの仕切りである。したがって夏場の休日といえば妻の実家の草刈三昧であるが、これも「仕事」ではないのである。もちろん金にもならなければ、ただただ身体の疲労を自ら蓄積しているだけ。無駄といえば全くの無駄な時間。生業から離れたとしても、この無駄な時間は身体が動く限り続く。おそらくそうした身になれば、この無駄な時間も「仕事」と他人には語るようになるだろう。世間には退職して、まったくやることもなく自分の好きなように時間を費やしている人たちもいるが、そうした人たちとは明らかに異なる。だからこそ中編で触れたとおり、地域社会のために時間を費やす人たちも、「仕事」に割り振らなければ、趣味などと表現するには、あまりにも可愛そうかもしれない。
ところで、本編を記すきっかけになったのは、わたしにとっての本業外の「仕事」を考えてのこと。もう一線を退いてよい年齢にきていれば、あえて一線にこだわることなどない。したがって「楽な身」になりたい、という葛藤もある。10年ほど前に比較したら、明らかに本業の業務は多くなり、立場からいまもって業務量を変わらず処理しなくてはならない。その環境下で本業外の「仕事」をこなすのは若いころ以上に負担が大きい。すでに終活の範囲に至っては、「やりたいことをしたい」と思うのも素直な気持ち。本業外の「仕事」を「仕事」と表現しなかったのは、趣味とかかわる「仕事」であることに起因する。役所にかかわるものだから、日当は支給されるが、拘束される時間だけかかわればよいというものではない。事前資料を提出しろと言われれば、さまざまな資料を読みあさったり、検討したり、そしてそれらをまとめたりしなくてはならない。そうした時間に対する報酬はいただけない。したがって拘束される時間の何倍も現実的には時間を要すことになり、それはそれぞれの技量や判断力によっても差異が生じる。納得できる成果を得たいと思えば、より一層時間を費やしたくなるのも事実で、会議出席時の報酬はあるものの、ほぼボランティアと言って間違いはない。自宅に本業を持ち帰っていたら、そうした「仕事」は何も手につかなくなるのである。この夏以降、まさにそうした状況下にあった。もちろん休日は草刈三昧でもあったし・・・。1日の中で、それらをどう整理して時間を使っていくか、悩ましい日々は続く。日記に空白が登場するようになったこの1年、いかに自分の時間が持てなくなったか、という証でもある。
終わり
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