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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

寒念仏の鉦叩き像

2007-10-11 12:09:13 | 歴史から学ぶ


 先週南牧村の海ノ口から南相木村に入ったことを書いたが、大芝峠下のトンネルを通過し、南相木の集落に出るとそこは日向という集落である。そこの「おさる」という道端に変わった石像が立っている。左手に常夜灯が一緒に立っていて、同時に建立されたものだろう。寒念仏供養塔だということは、教育委員会の標柱が立っているからすぐにわかる。寒念仏とは、『日本石仏辞典』によると「寒念仏には寒中30日間、寒夜に諸所を巡りながら鉦をたたき念仏唱える行法と、村堂に講中が集まって和讃、念仏を唱える二とおりがあった」という。

 写真はその寒念仏供養塔なのだが、寒念仏の供養塔はほかの地域でも見ることはできるのだが、こうした増を刻んだものは珍しい。この地域では鉦叩き像と呼んでいるが、地元の人たちが呼んでいるというよりも調査してこの像がこの地域に特定されているということから、研究者の中でそう呼ばれるようになったようだ。『南相木村の石造文化財』にこの鉦叩き像について詳しく触れられている。南佐久郡内にはこの鉦叩き像というものが9体確認されている。旧八千穂村佐口、同高岩、北相木村宮平、小海町北牧、南牧村板橋という5箇所と、南相木村内に4箇所ある。どの像も6臂(腕が6本)で、鉦を抱いている。写真の像をはじめて見ると、胸の下に抱えている丸いものはなんだろうと思う。それでも下にある右手にハンマーのような物を持っていて、円形の上に吊り糸のようなものが彫られていることから鉦だと解る。わたしはほかの鉦叩き像というものを知らないが、本などに紹介されているものを見ると、どれもこの写真のような像容である。まるで同じ人、あるいはおなじ場所で彫られたようにすべて丸彫り像である。丸彫りで6臂を現すのはなかなか難しいだろう。光背があれば、そこへ浮き彫りにすればよいが、丸彫りともなれば石だからかなり技術がいる。技術がないとしたら、写真のように、体に無理やり6臂をとってつけたように彫らざるをえないわけだ。合掌している2臂はすぐにわかる。そしてその下の鉦の脇にある2臂手もわかる。もう2臂はどこだろうとよく見ると、合掌の上にそれらしきものがある。しかし、6臂だと言われないと気がつかないかもしれない。

 顔の彫りの稚拙さはどこのものも同じだが、とくにここのものはちょっと風変わりである。鉦に彩色をした跡が見えるが意味があるのかないのか定かではない。実は写真に納めたおりには、この地域独特の像だと知らなかった。帰宅してあらためて調べて見たら〝鉦叩き像〟としてあちこちに書かれている。寛政年間の鉦叩き像が多く、南相木でも4像のうち3像に寛政年銘があるという。ここのものは常夜灯に「寛政二庚戌十月十七日 念仏講中廿人」(1790)と書かれている。

 さて、残念なことに『南相木村の石造文化財』にも『北相木村の石造文化財』にも信仰の記述がまったくない。だから現在どういう信仰の対象として生きているのかはまったくわからない。機会があるかどうかは解らないが、もし再度訪れることがあれば確認してみたい点である。

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