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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

赤松隧道へ

2021-11-28 23:09:23 | 歴史から学ぶ

 昨夜松本へ泊まったこともあり、せっかく足を伸ばしているので、以前から気になっていた現場に立ち寄ることにした。現在は松本市になっている旧波田町赤松。こう聞くと世間では「どこ?」となるが、松本電鉄上高地線新島々駅のあるところ、といえばメジャーな印象となる。よく耳にする新島々駅は、この赤松にある。もうひとつ、赤松には中信平を潤す農業水利施設頭首工があった。県内でも最大規模の頭首工である。現在は上流にその機能は移されており、以前「想定内と、想定外」に掲載した写真の頭首工が、赤松頭首工に代わる梓川頭首工である。その際の写真を見てもらうと解かるが、この渓谷の両岸の斜面は、とても急だ。とくに頭首工の上、突出した尾根の角度はちょうど45゜ほどの斜面を形成している。ちょうどこの斜面の下あたりが「赤松」地籍なのである。新島々駅の背後の山であり、ようは赤松地籍の背後は急斜面となっているということである。

 この急斜面の法尻に、かつての波田堰があり、90メートルほど斜面を登った山腹に旧黒川堰があった。この黒川堰の赤松隧道の存在を知りたいと思って訪れたのである。山麓に赤松集落があるということもあって、この黒川堰を造ろうとした際には、防災面から反対もあったという。この斜面を歩いてみるとわかるが、ところどころ岩盤が露頭していて、黒っぽい砂岩質の岩が目につく。混在岩と言われるもので、節理が発生していてそれほど強固というほどのものではない。この急斜面を等高線に沿って流れていたと思われる黒川堰を追ったのである。赤松集落の最上部に神社があり、ここに下ってくる沢が赤松沢という小さな沢である。水量はそれほど多くなく、旧黒川堰があるあたりまで登ると、赤松沢には一滴も水の流れは観測されなかった。この脇から林道が登っていて、それを歩いていくともうひとつ西側の栗谷俣沢の谷に至る。こちらは赤松沢と違って、そこそこの水量が認められる。この谷へ林道から逸れて登ると、そこにかつて水路があったと思われる小段が認められるのである。こういうかつての水路跡は、日ごろよく目にしているから、すぐに旧水路敷きだとわたしには解かる。その水路敷きが栗谷俣沢にぶつかるところに、かつての隧道のアーチ部だけ姿を見せている。やはりここが黒川堰の跡だったことがわかる。隧道入り口は石積みで施工されている。ちなみに山腹水路となっているこのあたりの初期水路は、江戸時代には開削されていたようだ。隧道入り口から左手に小さな歩くほどの小段が等高線沿いに沿っているが、管理道でもあるが、おそらくかつては隧道ではなく、山腹水路として利用されていた跡と思われる。この歩くほどの道を迂回して尾根を越えると、赤松沢に至る。ここにも隧道の入り口と思われるアーチ部が見えており、この隧道入り口上部には化粧された石に文字が刻まれている。この化粧石が平成8年に発行された『黒川堰』(東筑摩郡黒川堰土地改良区)に掲載されている赤松隧道の写真に見えるものと同一であることから、ここが目指していた「赤松隧道」であることが判明した。残念ながら隧道そのものは閉塞していて、全容を見ることはできなかったが、さらに等高線に沿って下ると、かつての隧道であったと思われる坑口が見られ、隧道内の様子を垣間見ることはできた。

 それにしてもこの赤松隧道のあるあたりの山腹は、前述したようにかなりの急斜面。落葉した枯葉が獣道ほどの幅に堆積していて、その下は45゜ほどの斜面が続く。なにより滑りそうな獣道を踏み外せばかなり下のほうまで転がり落ちそうだ。さすがに慣れているとはいえ、注意しての前進であった。この斜面に水を通したというのだから恐れ入る。加えて粘質ではない。水路を造っても漏水したことだろう。そのため明治34年に親堰を完成させた。さらに大正時代に入ったころ、素掘りだった水路を石巻(石積)施工して、強固なものへと補強した。今は使われなくなった水路であるが、石積みされたかつての水路の痕跡を、この急斜面に延々と見ることができた。

栗谷俣沢側隧道坑口

 

赤松隧道赤松沢側坑口

 

赤松隧道下流隧道坑口

 

赤松隧道を迂回するかつての水路敷

 


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