このところ「庚申堂」にある青面金剛の彩色例をとりあげてきたが、旧南信濃村以外にはどうなのだろうと捉えていくとこの県境域にはけっこう庚申堂と呼ばれているものが多い。
阿南町日吉のかつてお鍬祭りの行われた伊勢社の上に車道があり、その道沿いに小さな庚申堂がある。日吉は和合の一集落であるが、和合地区内に庚申堂は6箇所あるという。間口1間半少し、奥行1間ほどの空間は、前面と左右に扉があるが、どれも最近開けられた様子はなく、唯一向かって左側の扉は開いてくれる。ど真ん中に立派な笠を載せた角柱に刻まれた青面金剛が配置されている。向かって右側に棚が設えられていて、三十三観音が並べられていて、向かって右側面にある銘文は、室内が暗くて読み取れなかった。またの機会に読み取って本文に書き加えたい。首から数珠を掛けているようで、その数珠と合掌しているすぐ下の衣と思われる部分に若干黒く塗った痕跡があるとともに、下体の衣も少しばかり黒くなっている。加えて日輪と宝輪と思われる部分にも朱と黒の彩色痕が見える。堂内にまつられている三十三観音の石仏にも衣を中心に黒色が見え、ここでは黒色彩色が特徴的と言える。
また、青面金剛向かって右手の棚上に一光三尊善光寺仏が安置されている。やはり衣に朱と黒色が見え、明らかに彩色されたものと解る。佐々木つよし氏によると「三十三観世音と阿弥陀三尊石像を彫ったのは、現天龍村神原の石工であり、材質は同じ花崗岩で新しいもの」という(「南信州」新聞2015年4月26日)。佐々木氏によると日吉での庚申講は戦後は行われておらず、戦前まで申の年毎に祀っていたという。堂内には卒塔婆がたくさん奉納されていて、かつての信仰の深さを伝えるてくれるが、山間地域でお鍬祭りが伝承されていたというムラ柄から推測すると、なぜ庚申講が止められたのかに興味が湧く。当たり前のようにかつての行事が伝えられている地域が、逆になぜある行事を辞めざるを得なかったのか。戦前に行われていたというから要因に戦争があるかもしれないが、それだけの理由だったのかは疑問が残る。これら卒塔婆は佐々木氏によると明治20年から昭和48年までのものがあるという。とすれば戦後も行われたと捉えるところなのだろうが、祭りは戦後行われていないと佐々木氏は前掲紙に述べている。卒塔婆の正面に書かれている文字は「奉供養南無青面金剛童子安全五穀豊登養」といったもので、養蚕繁盛や悪疫退散を願っている文字もある。やはり、いわゆる庚申信仰とは異質なものが受け止められる。これらは寺院で書いてもらったもののようで、寺院が入り込む際に民間信仰を利用したため、このような信仰に変化していったのではないだろうか。ところで佐々木氏は「庚申堂」とも「観音堂」とも紙上で述べており、はっきりしない。彩色されている理由を近くで聞いてみたが、彩色されていることそのものを認識されていない方もいるし、そもそも既に伝承者が途切れそうな状況である。
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