Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝厄年〟その3

2025-02-13 23:58:19 | 民俗学

〝厄年〟その2より

 竹入弘元氏は「厄落としの道祖神―上伊那郡の事例を中心に―」(『あしなか』157 昭和53年)において「厄年は全国的に、男は二十五歳・四十二歳。女は十九歳・三十三歳と言われているようです。伊那谷の場合、上伊那は同様で、更に二歳(三歳)・七歳・六十歳もそうだという所があります。下伊那では、女の三十三歳の代わりに三十七歳を厄年といっています。そしておもしろいことに上伊那南部の飯島町・中川村・駒ヶ根市辺は下伊那に隣接するため、三十三歳・三十七歳の混乱がみられ、両方とも厄年だという人も多くなっています」と述べている。竹入氏は度々このことについて触れていて、わたしにとっての「厄年」のイメージになっている。そして生家ではも女性は37歳が厄年と言っていた。ちなみに生家は以前から触れているように飯島町本郷である。

 「〝厄年〟その1」において『長野県史民俗編』第5巻総説Ⅰの記述を紹介したが、そこには女性の37歳のことは一言も触れられていない。そこでもう少し地域を限って捉えている。『長野県史民俗編』第2巻(一)から南信地方についての記述を見てみると次のように書かれている。

 厄年とはある特定の年齢は災いの多い年であるから、特に忌み慎しまなければならないとされた年齢のことである。南信では男一、二、三、七、一三、二五、四一、四二、六〇、六一歳、女一、二、三、七、一三、一八、一九、二九、三三、三七、三八、四二、六一歳が厄年とされ、幼児の一歳から六一歳にまでわたってみられる。一般に男二五、四二歳、女一九、三三歳を厄年と考えている所は多いが、下伊那地方では女三七歳を厄年ときめている所が目立っている。

 ここでは下伊那地方では女性37歳を厄年としている所が目立っていると述べているが、竹入氏ほど特徴あるものという捉え方はされていない。「〝厄年〟その1」で触れた米山梓氏が年齢に注目しなかった背景にも、利用しているデータが県史であるところから察すると、県史に見る厄年への捉え方が影響したのかもしれない(想像に過ぎないが)。繰り返すがわたしは生家で「37歳」という数字を耳にしていたため、竹入氏の記述が記憶に留まったわけである。ここに男性と同様に女性の厄年年齢について地図化したものを提示し、さらにここで触れた女性の厄年33歳と37歳の分布域がわかるように地図化したものも取り上げた。

 

 

 

 女性も男性同様にふたつの年齢に集中する。それが19歳と33歳であり、男性同様に凡例上は7種に分類される。男性以上に地域性が見られるが、とくに33歳を厄年とせずに19歳とほかの年齢という記号が下伊那あたりに目立っているだろう。これはそのまま2枚目の図の37歳と重なるわけである。ようは1枚目でいう19歳のほか、という部分の「ほか」に37歳が入るわけである。繰り返すが33歳を厄年としていない地域として下伊那があげられるわけである。これは男性にはなかった分布である。また、19歳のみ、あるいは33歳のみという分布は松本―佐久ラインより北側に多く見られる。2枚目の33歳か37歳かという図では明確に上伊那南部あたりから33歳と37歳が登場し、下伊那では37歳が多くなる。竹入氏が触れた通りの分布域がここに表れているといって良いだろう。ただし、北信あたりにも37歳という例が点々と見られるのは意外であった。

続く

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〝野荒し柱〟

2025-02-12 23:30:07 | 民俗学

 『あしなか』157号(昭和53年)の巻末「たより」に田中義広氏が同155号に掲載された横山篤美氏の「野荒し柱の立つ村」について「「野荒し柱の立つ村」には大変感銘をうけました。手入れをしたら『遠野物語』より面白い「安曇物語」が生まれるとさえ思いました」と記している。『あしなか』155号はまるごと同名の記事で横山篤美氏が書かれている。なぜこれが掲載されたかについて表紙裏に解説されていて、もともとは信濃毎日新聞の土曜夕刊に掲載された『山と木と人と』というタイトルの第2部として昭和52年5月14日から8月13日まで13回にわたって掲載されたものという。切り抜き記事が事務局に送られてきて、転載することを了解得たという。いわゆる民俗誌であり、対象地域は横山氏の住まわれていた近くの「稲核」だった。副題に「長野県南安曇郡稲核」と記されている。

 さて、「野荒し柱」という聞きなれない単語が気になるところ。過去の『あしなか』を取り出してきて、当時あまり読んでいなかったことに気がつく。稲核では

 明治二年陰暦八月四日、村中が法界寺に集まって「極難者調べ、並に野荒し過躰改め」をしている。この年は四年前の寅年の凶作に並ぶ不作年になることが見込まれ、松本藩庁ではすでに極雑者、つまり飢え寸前の者の調査を村々に命じていた。そこで、不順を天候を案じる村人が集まって、村内銘々の生活実態の調査と、畑作盗難への警戒を申し合わせたのである。

村に残っているその際の議事録を載せていて、

一、野荒し致し候者は見附け次第、野荒柱にくくり附け三日さらし、その上その者の家へ村中集り喰うべし、その上六八籾は申すに及ばず、すべて御拝借物決して貸付け申すまじく候
 さてまた役場表へ目安箱掛けおき、なりずもく(果樹)等に至って盗取り候を見当り候はば、見のがしなくきっと目安箱へ入れ申すベく候(後略)

とある。野荒し者とは他人の畑の作物を盗み取る者のことを言う。そしてこれはその時限りのものではなく、昔から野荒し柱があったことは、古文書に見られるという。「野荒し柱は常設のもので、村中に一本かまたは幾本もあったかは分からないが、そこに三日間縛りつけ晒し者にしておき、一方、村中の者がその盗人の家に集まって、あるだけの食物を食べてしまえというのである」と横山氏は書いている。その上で「三日間のくくり付け中はどんなふうに過ごしたか、家族や親類の者が密かに食物を運んだであろうか。それよりも、そのこと自体村定めであっても、果たして実際に行なわれたものだろうか。もしそのようなことをすればこれ程にするぞ、ということをお互いの胸にしみこませるための表示であったかも知れぬ」と、本当にそういうことが実施されたかどうか思案している。厳しい触れではあるが、「入れ札」のことも記している。

 稲核村の五人組頭前田長七の日記によると明治3年(1870)陰暦3月5日に、またも法界寺に村の総寄り合いがあったという。村持ちの栃沢山に小屋掛けして杣、木礁をしていた金之丞ら5人が、家に帰っていた3日間のうちに、小屋に置いた鋸、斧、やすり外諸道具を誰かに盗まれたという。その場所が他村から及ぶところではないことから、村の者の仕業に相違ない。そこで村中集まって〝入札″(いれふだ)で犯人を割り出そうとしたのである。こうした「入札」もよく行われた犯人割り出し法だったという。かつての村で暮らすことの厳しさがうかがわれるが、犯罪を犯した者を自らの掟で裁く。確かに物語になる話かもしれない。

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続 古本を買う

2025-02-11 20:38:16 | つぶやき

 昨年11月に「古本を買う」を前後編で書いた。その際にも記したが、「注文してもすぐに届く」。最近「山の神」について触れている中で、どうしても読みたい本があった。『山の神信仰の研究』である。同書は伊勢民俗学会 が1966年に刊行したもので、第5回(1966年)柳田(國男)賞を受賞した際の対象業績である。その後昭和55年(1980)に増補改訂版が刊行されていて、大幅に増ページしている。この読みたかった本であるが、県内の図書館で閲覧しようとして検索すると、たった1館しか所蔵していなかった。さらに所蔵しているものの閉架扱いで貸出不可なのだ。541頁にものぼる本だから手元で読みたい。ちなみにその所蔵されている館のものは増補改訂版だった。

 そこで検索したのはもちろん古書である。541頁もある本だから高額なことは予想していた。本日現在は初版本は14書店が掲載していて、最安値は8800円。最高値は27500円と幅がある。先日最も安かった1万円以下の書店へ注文したのだが、よく考えると初版本ではなく増補改訂版が欲しい。そこで初版本はキャンセルし、あらためて増補改訂版を探してみた。ちなみに本日の検索では7書店あり、最安値は22000円、最高値は41800円である。この増補改訂版の刊行当時の定価は11800円だった。もちろん当時は消費税の無い時代。

 実は堀田吉雄先生の『山の神信仰の研究』という本は、若いころに認識していた。しかしとても購入できる価格ではなく、「買えなかった本」である。堀田先生には会ったことがある、というよりは同じ空間にいたことはある。まつりと同好会の27周年大会が昭和62年3月28日に行われ、その会場に参加されていた(「昭和62年の記憶」でこの27周年大会を触れたと思っていたら、当時忙しくて書いてなかった。かろうじて翌々日の白骨温泉行の記事だけ本日記には掲載されていた)。まつり同好会を主宰していた田中義広先生と堀田先生の交流は深かったと記憶する。堀田先生と言えば伊勢民俗学会であり、『山の神信仰の研究』だった。その本を35年以上経てようやく読んでみたいと思っているわたしの学識の無さは勘弁してもらう。さて、本日検索すると最安値でも22000円なのだが、数日前にはとても安いものが古書一覧に掲載されていた。ただ購入する際にちょっと悩んだ。ようは状態が記載されているのだが、「函(ヤケ・シミ・スレ・少剥し跡・少汚れ)付 本体少ヤケ 小口少シミ・少汚れ 扉頁少シミ 終頁少汚れ 開き癖」とあった。ほかと比べてとても安かったので、かなり傷んでいると推測した。あと心配だっのは、以前購入した本にページの欠損があったこと。実物を見ずに購入するからそういう心配は伴う。とはいえ、傷んでいても読みたいのが優占だから最安値を選択した。そして決裁して書店が送付したのは月曜日の夕方。そして今日着くのである。急いではいないのですぐ着かなくても良いのだが、早さは相変わらずだ。そして何と言っても状態である。古い本だから黄ばんでいるのは当たり前。我が家の書斎に置いてある本だった黄ばんでいる。そして届いた本は予想以上に綺麗。あの状態コメントはまったく気にならない。良い買い物をしたと安堵している。

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こと八日行事の今

2025-02-10 23:36:03 | 民俗学

里山辺追倉の道祖神(令和7年2月9日撮影)

 平成29年(2017)に「年々変わっていくコトヨウカ行事の状況を記した。その後どうなったのかと思い、こと八日の翌日、9日に松本市の入山辺近辺の様子をうかがってみた。あれから7年も経つことから、とくに気になったのは里山辺追倉(おっくら)でこと八日に行われる綱引きである。7年前にずいぶん簡略された綱の姿を見たわけであるが、そもそもそれすらなくなってしまっていないかという危惧だった。行ってみると7年前とほぼ同じ姿を見た。同姓5軒で行われていた綱引きも、3軒となって綱引きもしなくなったよう。したがって「綱」というよりは荒縄を2,3本をふたつ撚っただけのものだが、一応道祖神に巻き付けてある。

 

入山辺厩所の道祖神(左)平成23年 (右)令和7年

 7年前も確認してみた厩所の道祖神の様子もうかがってみた。平成26年(2014)の様子は「石仏に彩色するということ⑨」に示してあるのと、平成29年の様子は前述した通り。ここでは平成23年(2011)のものと今年の写真を並べてみた。見ての通り、餅を付けた痕跡は見えるが落ちてしまったのか道祖神の表面にはそれらしいものは付いていなかった。ちょうど通られた方に聞いてみると、今も餅を塗りつける方はおられるというし、少なくなったものの家の庭先で行うエブリダシを行う人もいるという。ちなみにビンボーガミの祭りはこと八日である昨日行われたという。川端には燃やしたと思われる黒くなった灰が残されていた。

 

入山辺原の道祖神(上)平成23年 (下)令和7年

道祖神前の道端に何かを燃やした痕跡があった(令和7年2月9日撮影)

 もう1箇所、厩所の手前の原の道祖神もうかがってみた。いずれも14年前とは様子が違うことははっきりわかる。時間の都合で入山辺では2箇所しか確認できなかった。参考に厩所より奥の大和合と小仏の平成23年に撮影したこと八日の道祖神の写真を取り上げてみる。14年前の入山辺の道祖神は、餅がたくさん塗り付けられたものが多かったということになる。なお入山辺のこと八日行事については、平成5年に記した「松本市入山辺のこと八日行事」を参照されたい。

 

大和合の道祖神(平成23年2月8日撮影)

小仏の道祖神(平成23年2月8日撮影)

 

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美篶芦沢の「道祖神講」へ

2025-02-09 23:23:05 | 民俗学

道祖神講(令和7年2月9日)

 

 伊那市美篶芦沢の道祖神講にうかがった。美篶芦沢の道祖神建立の背景で詳細を触れているが、実際の講がどのように行われているか見てみたかった。午後6時に講員の方たちが集まり講は始まる。講といっても懇親会が主たる中身である。

 集まった人たちは、各々床の間に掛けられた「道祖神」の掛軸にお参りする。掛軸の前にはお神酒と洗米、塩が供えられるが、お神酒と洗米については、当番の方が実際の道祖神に供えておき、講で披露される。お神酒で献杯となるが、そのさいのお神酒は、昼間道祖神に供えておいたお神酒が使われる。掛軸にお参りすると、線香に火をつけ線香立てに立てられる。道祖神なのに線香を立てる理由は、講員の方たちも知らない。聞くところによるとこの地域では秋葉講も行われていて、その際にも線香を立ててお詣りするのだという。掛軸にお参りをすると、席に着くが、年配の方が上座に座り、若い人ほど下座に座る。7軒あった講員は一昨年一方が退会されて、現在は6軒となった。みなが集まると講の始まりとなるが、当番の方が挨拶をされて、長老の方の発声で献杯となる。あとは直会となり講を終える。

 現在は公民館で行われているが、元は当番の家を巡回していた。当番の方を「オトウヤ」と言ったらしくオトウヤでは必ず芋汁を作ったという。先ごろ高遠町藤沢の荒町の山の講を訪れたが、その際にも芋汁が必ず作られた。芦沢のこの講の方々に山の神のことを聞いたが、ここでは山の講は行われていない。

 オトウヤに渡される道具類の中に、「道祖神講」という講のやり方を記した紙がある。道祖神へのお神酒と洗米を供えた写真、床の間に飾る掛軸と供え方の写真の2枚が貼られ、①会費は2000円、②来た人からお茶を出す、③お神酒で献杯(音頭は長老)と記されている。講仲間は後から加わったNさん以外は屋号で記されている。表紙に昭和10年2月8日と記しの入った道祖神講の帳面があり、記されているのは会計簿である。古い記述かをうかがうと、オトウヤのことを「宿」と記しており、「御当番」とも記されている。昭和10年にはすでにNさんは加わっているようで、当時も7軒が講員だったよう。戦時中も講は実施されている。なお、もともとは2月8日に行われていたものだが。現在はその日に近い日曜日にあてられている。こと八日にあたるが、この日を「コトヨウカ」とは言わずに道祖神のお祭りの日と言っている。現在参加される長老の方も経験はないというわら馬を作って道祖神にお参りしたという習俗が、昔はあったという。

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〝厄年〟その2

2025-02-08 23:35:36 | 民俗学

〝厄年〟その1より

 前回厄年として7種に凡例を分けて示した。25、42歳がほとんどのため、地域性が見えなかったわけだが、今回は25、42歳以外の厄年だけをあえて図にしてみた。すると前回はシンプルに見えた県南が賑やかになった。図には2歳境界線を示したが、このラインより南には2歳を厄年とするところがあるが、北には小谷村に1箇所だけ記号が落ちているが、あとは皆無。理由などはわからないが、たまたまこういう結果になった。そして上伊那を中心に2歳のみのエリアが描かれた(あくまでも25、42歳を厄年としているが、それ以外に示された年齢である)。なぜか2歳境界から北側に全くの空白エリアが生まれる。ようは厄年は25あるいは42歳に限られるエリアである。7、15歳は北信のみにあり、とくに栄村に集中する。

 

 もうひとつ図を示そう。男性の大厄を示したものである。やはりほとんどが42歳であるが、42歳ではない回答もそこそこある。ちなみに42歳大厄は424箇所中299箇所を数え割合にして71パーセントにのぼる。次に多いのは25歳で19箇所、8パーセントである。全県に分布するが、25歳は県の中央部に多いようだ。そのほか41歳は4箇所、25歳と42歳というところが3箇所あった。圧倒的に42歳ながら、そうではない箇所もあることは認識しておかなければならない。

続く

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〝厄年〟その1

2025-02-07 23:25:22 | 民俗学

 デーモンジと厄年がかかわりあることは、その度に触れている。今年のデーモンジを紹介したデーモンジ(令和7年)においても、「扇子」をテーマにしたが、聞き取りは叶わなかった。辰野町界隈における「扇子」については、初参りの「扇子」とともに調べてきたいところ。

 さて、厄年について『長野県史民俗編』第5巻総説Ⅰでは「県下では男性は二五歳と四二歳、女性は一九歳と三三歳を厄年と考えている所が圧倒的に多い。そのほか、上伊那郡長谷村市野瀬のように男性は二、七、二五、四二、六一歳を、女性は二、七、一九、三三、六一歳を厄年としている所や、木曽郡開田村髭沢のように男性は二、七、四二、六二歳、女性は二、七、一九歳を厄年としている所などがあり、厄年の年齢の考え方は地域によってさまざまである」(91頁)と述べている。「圧倒的」と表現しているように、厄年の年齢は県内変わりないと言っても良いということになるのだろう。長野県内の厄落しに関しては、米山梓氏が「長野県における厄落とし習俗」と題して『伊那民俗研究』28号(柳田國男記念伊那民俗学研究所 2021年)へ寄稿している。また、同氏は同会の2021年9月25日例会において同じ題名で発表をされている。ただし、そこでも県史の捉え方同様に厄年の年齢については特別視されていない。ここでは年齢について少し検証してみることにする。

 

 

 まず男性の厄年について県史の調査資料から地図化したものが、「男性の厄年」である。どう描いて良いかと思案した結果であるが、特徴が出ないのは確かである。ようは地域性が現れないのは、前述したように圧倒的に25歳と42歳が多いからである。凡例に示したのはその25歳と42歳のセットの例と、25歳と42歳に加えてほかの年齢を厄年と言っている例、また25歳とほかの年齢という例と42歳とほかの年齢という例をとりあげた。圧倒的にセットで厄年としている例は多く。その数は424箇所中241箇所に上る。57パーセントにであり、ここに25歳と42歳とほかの年齢の事例79箇所を加えると75パーセントは男性の厄年として25歳と42歳と答えていることになる。とはいえ25パーセントはそれ以外の回答となるが、実は無回答地点も多い。意外であったのは42歳を厄年ではないと答える箇所が回答中に9箇所あったことである。42歳厄年はかなり常識的に言われる厄年であるが、その年を厄年でないという。さらに25歳も厄年ではないという箇所は2箇所あった。図から受ける印象は松本―佐久ラインから北は多様な記号が見られるいっぽう、南はシンプルな印象を受ける。南側は、ほぼ25際と42歳のセットにほかの年齢が加わる箇所がほとんどと言える。いっぽう北側は、25歳のみ、あるいは42歳のみといった例が目立つ。とはいえ、地域性が現れる地図では無いことは確かで、故に厄年を対象にした地図は県史でも扱われていない。

続く

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〝山の神〟再考 ⑪

2025-02-06 23:48:23 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑩より

 昨日〝あしなか〟について触れたが、復刻版を開いていてそこにあった山の神の記事に目が留まった。昭和26年2月に発行された〝会報〟20号に掲載された胡桃沢友男氏の「山の講」である。平成一桁時代に盛んに長野県民俗の会に出席されていた胡桃沢氏の名は『日本の石仏』(日本石仏協会)でも度々拝見していて、道祖神の「通せんぼ」の記事はインパクトがあった。その胡桃沢氏がこの古い時代の山村民俗の会にも投稿されていた。大正10年生まれの胡桃沢氏であるから氏が30歳の時のもの。

 冒頭こう始まる。「山の麓に育った人々にとって、毎月十七日は山の神の日として忘れられない思い出が残されている」と。胡桃沢氏の地元は松本である。あらためて「〝山の神〟再考 ②」に掲載した祭日の地図をここに加工して示してみて、なるほどと思う。「月の17日」が祭日と答えられている地域は、白馬村と大町市境から軽井沢町まで線を引き、また安曇村から原村へ線を引いた地域の間に限られている。そしてその地域には「1月17日」という回答が「月の17日」より優占する。胡桃沢氏は山の講は「今から三十年位前迄は盛んに行われた」と記している。ようは大正時代までということになる。そして「今は一部の山村の部落にかぎって年一回、三月とか五月だけ行われている処もある」と記す。ようは毎月が年1回に衰退したというわけである。地図でいえば、前述のエリアでは、もともと毎月17日が山の神の祭日であったが、年1回に変わって行ったということになるのだろう。その地域が県の中央部に完全に分別できるわけである。もしかしたら高遠町藤沢の荒町で1月17日を祭日としていたこと、また弓矢を供える地域が高遠町が南限であるということも合わせると、安曇村―原村ラインは、もう少し南に下って奈川村―富士見町ラインなのかもしれない。そしてそれは十日夜の山の神(10月10日祭日)の北限にもあたるのだろう。参考に十日夜南限も示してみた。西北西から東北東へ傾斜したラインでいずれも分別できるのも特徴であり、なぜこうしたラインで分別されるのかは今後の課題である。

 

 胡桃沢氏の70年以上前の記述には興味深いかつての山の講が見えてくる。「山の講と云うのは部落の中の近所隣十軒位いとか、部落全部で組織し、山の神の日には、昔は講の仲間が米を五合宛持ち寄って、飯を焚き、茶碗に飯を山盛りにして、それに箸を差し御飯がついて上がる程固く盛って食べた」という。これまでにも触れた通り、もともと山の仕事に携わる人たちだけの講ではなく、地域ほぼ全戸がいずれかの講、あるいは地域全体の講に加わっていたと考えられ、ここにも「五合」という米が示されている。高遠町荒町で疑問に浮かんだ「五合」の米を持ち寄るという話、なぜ2合だけ使って3号持ち帰るのかという理由は、やはりここにあると言える。いまもって過去の「五合」持ち寄るという風習が残っているわけである。そして荒町にはそれほど戸数の多い集落ではないにもかかわらず、4つの講があったというあたりも胡桃沢氏の表現する形式を物語るもので、古い姿を残していると言える。

 胡桃沢氏の記述でもうひとつ思いだしたことがある。「ちんば山の神」という単語である。「前述の「あしなか草履」を馬の沓を片方づつ作って供える事であるが(註1)山の神が慌てて片ちんばにはいて、弓と矢を持って狩りに行くのだと云われているが、又処によっては、山の神はちんばだから足なかを用いた云はれているし、弓と矢を供えるのは、案山子の意味だと云はれている」という。どこで「ちんば山の神」の話を知ったのか覚えていないが、山の神は「ちんば」であるという話は昔からわたしの記憶にあって、それを「ちんば山の神」と称していた。この言葉で検索すると「山のなかでちんば山の神という石碑を見つけましたが、山の神さまは片足が不自由なびっことかかたちんばの身体障害者(カラカサお化けや一つ目小僧)みたいな妖怪だったのですかね?」というものがYahoo!知恵袋にあった。ベストアンサーには「仰るとおり、山にまつわる神や妖怪には、なぜか一つ目で一本足のものが多く見られます。あの柳田國男もこれに関して「一目小僧その他」や「一眼一足の怪」などの文章で考察しています。なぜ一つ目一本足が多いか、理由についてははっきりとはわかりませんが、神の依り代となる人間の眼と足を潰して閉じ込めたのがおおもとだとか、製鉄に関わる人が強い火を見てふいごを踏むため片目と片足を悪くしやすいのが元になっているとか様々な説があります。」と書かれている。

 胡桃沢氏は十日夜の案山子あげに関連づけており、そもそも案山子は弓矢を持った一本足の姿だったものが山の神の衰退に伴って田の神を象った案山子に変化したものだという。案山子が山の神から発生したと考えれば米5合とも関連して山の講だけに限らず、「〝山の神〟再考 ①」へ記したコトヨウカへとも繋がっていくわけである。「一眼一脚の山の神」について大護八郎氏が『山の神の像と祭り』に触れており、それこそコトヨウカの一つ目小僧の話と関係する。山の神信仰については多様な信仰形態を有しているためその実像が把握できないまま今日に至っている言われており、従来の山の神信仰の考え方では柳田國男以後主張されている先祖神であるという考え方、と狩猟や焼畑などの生業に関わる神としての考え方の二つに大別されるという(註2)。これまでの長野県内の山の神の信仰事例から捉えられる山の神は、前者の祖先神であるという考え方が色濃いと言えそうである。

註1 「前述」の内容は「山の講には、一般には柳で弓を作り、これに竹で作った矢をつがえ、それにあしなか草履と馬の沓を片方づつ作って、洗米や塩を紙に包んでしばりつけ、屋敷の中の立木にしばりつけたものであった」というもの。

 2 永松敦「山の神信仰の系譜」


続く

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〝あしなか〟

2025-02-05 23:37:18 | つぶやき

 最近友人が「〝あしなか〟を辞めようかどうか悩んでいる」と言う。〝あしなか〟とは、山村民俗の会が発行しているもので、歴史のある研究会の機関誌である。かつては年に何号も発行していたものの、最近は発行数が減っているうえに、内容も薄くなっている。さらに最近は毎号送付される度に会費納入用の振替用紙が同封されていて、先々の会費まで催促されているようで、そもそもちゃんと会費の納入について整理されているのかどうか心配になってくる。会員数が減って、それほど煩雑ではないと思うのだが、しばらく前には残金がなくて会報の発行が厳しい、みたいな報文が同封されていた。最新号である331号が送られてきて、そこにも振替用紙が同封されていて、振替用紙には手書きで「8年」と朱書きされていた。ようは令和8年分の会費を納入する際に利用してほしい、といった意味のよう。まだ7年が始まったばかりだと言うのに…。

 実は今号には2枚の手紙のコピーが同封されていた。1枚は編集者である岡倉捷郎さんの「いま灯りを点し続ける意味」というもの、もう1枚は事務局の塩野谷昭夫さんの「参々壱巻の重み」というものである。いずれも会の状況はひっ迫していること、会員の高齢化や減少といった状況において、〝あしなか〟を継続するべきなのか廃刊にするべきなのかという問いである。一時は300名いた会員が、今は85名だという。同じような状況はどこの会にもあることで、この後こうした発行物は皆がみな消滅してしまうのかもしれない。友人とこのことを話しながら、過去の話を思いだして昔の会報を書棚から取り出してみたりした。すると手元にある最も古い会報は152号だった。そこには新入会員の名前が一覧化されていて、わたしの名前も印刷されている。昭和52年の3月に発行されたもの。わたしがまだ高校1年だった時のものである。当時は年5回発行されていて、会費は2000円だった。現在は会費7000円で年3回発行が目標なのだろうが、会務報告をよく見ると今号を発行すると次の号は金銭不足で会費が入らないと発行できないよう。そもそも今号は昨年度の発行予定のものだったという。これはかなりヤバい状況であることに間違いはない。そんな話を友人としながら、「いつから入っているの」という話になって前述のように最も古い会報を紐解いた次第。会では令和3年に最も新しい会員名簿を発行している。名簿にはそれぞれの入会年が記されていてわたしのところには「昭54」とある。あらためて古い会報を取り出してみて、これが間違っていて昭和52年だとわかった。友人は平成15年に入会している。

 古い会報を紐解いてきて、友人に見せたらコピーをされていた。もう少し会員を継続するよう考えるかどうか…。実は入会後間もない157号へわたしは稚拙なものを投稿している。事例を並べただけのごく短いものである。昭和53年の6月に発行されているから、高校2年の時に書いたものだろう。山村民俗の会は、当時復刻本を刊行していて、第2期として101号から160号までの復刻本を昭和56年11月末から配本していた。その第2期全4冊は、34,800円もしたが、注文したので手元にある。その配本された本を開いて見たら、当時のパンフレットが挟んであった。それが下記に載せたもの。スクロールしてもらえば見開きの右側も閲覧できる。160号まで復刻されたから、唯一わたしが投稿した短文も、ここに収録されているが、見るに堪えないような内容である。過去の会報の内容を紐解くと、あらためて「こんな記事もあったんだ」と気づく。155号には横山篤美さんが「野荒し柱の立つ村」をまるごと1冊に書かれている。現松本市の稲核について書かれたもの。しばらく前に稲核には何度も足を運んでいたが、こんな記事があったことすら知らなかった。もう一度読み返してみたい。

 

 

 

 

 

 

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浮き草

2025-02-04 23:30:36 | ひとから学ぶ

 「浮き草」についてコトバンクでは、「水面上に浮かんで生育する草の総称。根が水中に垂れて固定しないことから、人の世の定めないことにたとえ、「浮き」を「憂き」にかけて用いることが多い。また、生活、職業等が不安定なことのたとえにもいう。」とある。またWikipediaには「ウキクサは水面を漂うため、不安定で落ち着かない生き方をウキクサ (浮草) に例えて表現することがある」と記している。

 よく立ち寄るお客さんのところで、ひとりで事務を担っている女性が、そこの役員さんのことを「浮き草」と表現される。とりわけ今回はわが社の担当者がある物件について提案をしたものの、役員がなかなか結論を出されない。数日前も役員が集まってその物件について話し合いを持ったものの、役員の中に「うちにやらせろ」と強引な意見を口にする人がいて、そこに仕事をさせたくない役員は結論を先送りにする。わが社の担当もこれぞという提案ができず、ふらふらしているので一層話が進まない。意味がよくわからない役員は無言で内心は「こんな会議には出たくない」と思っている。何度となく開かれる会議は無駄に時間だけが費やされていく。そんな光景を見ていて女性は「浮き草集団」とも言う。その中のある役員に至っては、女性は「ミスター浮き草」と表現する。「どういうことなんですか」と聞くと、川の中を流れていてぶつかりそうになると波に押されて回避する。またぶつかりそうになると同じように押し返されてぶつからない」。そんな生き方をしている典型的な人、だからミスターなのだと…。でもミスターに限らず「みんな浮き草」と言うのは、繰り返される結論の出ない無駄な会議に呆れてのこと。

 考えてみればひとはみな壁にぶつかりたくないから外部の声に限らず、身内の言葉でも流されてぶつからないようにするもの。みんな「浮き草」である。とは言うものの、決めなくてはならないことをちゃんと決められないのも困ったもの。その姿を見ているとじれったくて仕方ないわけだ。ぶつかっているばかりの人生だったわたしには、女性の言葉におかしくて仕方なかった。「みーんな、浮き草」という言葉に…。黒板の予定表にただ「会議」と記されている日が数日後に予定されていて、「あれは?」と聞くとまたこの物件の会議をするらしい。浮き草集団の結論は?、「出るわけないじゃん」、とは女性の弁である。

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懐かしい〝物語〟

2025-02-03 23:01:26 | つぶやき

 昨日は、仕事でお世話になった方の叙勲の祝いの席があり、招待をされて出席させていただいた。かつて叙勲についても記したことがあるが、公な立場に無い者には、叙勲などというものは無縁な世界である。したがって親戚筋に対象になる人がいない限り、まずそうした席に関わることはない。招待ともなると、対象者にとってそうした立場(仕事上で縁があり、その上で自らが代表的な立場)に無い限りあり得ないこと。ようは叙勲の対象どころか、そうした席に出席する機会すら無いだろう。そういう立場で招待を受けたのは、過去に1回限り。今回はすでに一線を退いているから通常であればそのような席に出る機会も無いのだろうが、受賞された方が受賞対象の立場にあった際に「お世話になった人たち」を対象に招待されたため、現役というよりも「元」立場の方たちが大変多かった。したがってわたしも懐かしい方たちと再会できて、過去話で盛り上がらせていただいた。この後「会うことはあるだろうか?」、そう思わせる方たちとも顔合わせでき、もしかしたらもう会うこともないのかもしれない、と思いながら交流をすることができた。

 今から15年ほど前、受賞された方がその組織の改革に立ち上がられた際に、支えておられた事務局長さんとは3年ほどのおつきあいだけだったが、その改革を演出された第一人者とわたしは思っている。もっと長くその立場を続けられると思っていたら、道筋ができたところであっさりとお辞めになった。でもわたしの中では存在感の大きな方だった。その方とも昔話で交流でき、しっかりと当時やってきた会計検査のことで懐かしく話ができ、「あの時」を知っている数少ない関係者だけに、あらめたてその方の偉大さを確認できた。会計検査の経験値の高い方、ようはわたしから言わせると「当たり屋」である。そうした方に当時わたしが示した検査院へのやり取りを褒められると、その後の自分の糧になった事件だったと気づくわけである。その際には受賞された方も同席していたわけで、3人だけが知る物語なのである。

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平成の合併後の今

2025-02-02 20:33:48 | 地域から学ぶ

遠山谷の〝今〟より

 遠山谷の人口減少について触れたが、わたしは平成の合併で、山間の村は明らかに「損をした」と思っている。人に言わせれば「いずれ人口は減る」かもしれないが、これほど人口減少が著しいのは、遠山谷に「何があったのか」と問われても良いと思う。特別何があったわけでもない、結果的には合併が大きな事象であることに間違いはない。吸収合併だから飯田市のスタンスも問われるが、それを口にすることはご法度なのかもしれない、この地域にとって。繰り返すが合併しなくても同じ道を歩んだこと、と言われればそれまでだ…。

 長野県住民と自治研究所の2019年12月23日発行「研究所だより」(155号)によれば、「町村をひとくくりにすると、合併・非合併での違いはほとんど見られない。ところが、町と村と区別すると、合併を選択した村での人口減少が大きいことがわかる。これは、旧市町村でみた人口増の上位15位の中に6町が含まれていた(表2)ことが影響しているものと思われる」という。ようは合併した旧町に人口増のところが目立つことから、村が際立って減少が目立つということだ。また、「表5は、旧町村(旧市部を除く)の人口動向を、「対等」と「吸収」とで合計して比較したものである。その差は大きくは現れなかったが、吸収合併であった旧町村の方で人口減の傾向が見られた。対等合併の形式をとったところでも、実質的には吸収された周縁部の町村も少なくない。そのため、数字上は大きな差をなさなかったものと思われる」と述べている。合併したか、あるいは合併しなかったか、そして吸収か対等か、といった視点ではいずれもそれほど違いが表れていないと言っている。これらは単純にそれらに括って比較したからのことであって、現実的にその背景まで理解した上で考えれば、明らかに違いがあるというのがわたしの考えである。

 

 

 

 合併、非合併という観点で見れば表1の編み掛け(色塗り)した町村を見て欲しい(「研究所だより」155号をわたしが少し加工したもので、表の左側は北信と東信、右側は中信と南信の市町村である)。例えば前回触れた遠山谷である。下伊那地域は遠山谷が突出して山間であるというわけではない。大鹿村や天竜村、あるいは県境地域は、同じような環境にあるといっても差し支えない。下伊那郡内の非合併の町村の編み掛け部分を見て欲しい。最も減少率の高い天竜村でも61.0パーセントであり、ほかの村々も70パーセント近辺である。その上で遠山谷の2村がどうかと見れば、あまりにも違いがはっきりしている。同じような環境といえば長野市に合併した西山地域である。最も低いところが鬼無里村の59.7パーセント。大岡村62.2パーセント、中条村66.4パーセントとなっているが、合併しなかった小川村は73.6パーセントと、西山の合併したどの町村よりも人口減少は少ない。もちろん遠山谷ほどではないが、傾向としてみれば合併したところの方が人口は減っている。同じようなことは環境が近い松本市に合併した奈川村や安曇村にも言えそうだ。そのいっぽうで、合併で人口が増えたところもある。したがって増えたところと減少したところを同じどんぶりに入れてしまうと見えるものも見えなくなるというもの。ピンクで示した梓川村、あるいは安曇野市になった町村は人口が増えている。これらは、合併したことにより、イメージが変わった地域とも言える。例えば三郷村や堀金村は、単独で村を維持しているよりも「安曇野市」というそもそも安曇野というブランドイメージが形成されていた空間に身を置いた方が地域イメージが違うというわけだ。ようはもともとの立地条件によって合併非合併は影響したわけで、山間のそもそも人口が減少していくのが見えていた地域にとっては合併が人口減少を加速させてしまったというわけである。

 さらに吸収か対等かという比較も、少なからず影響があるとわたしは考えている。事例としてはもちろん遠山と伊那市に合併した2町村である。後者は対等合併である。確かに旧伊那市に比較すると人口減少率が高いが、とはいえ、遠山と同じ中央構造線の谷にある地域にしては、その数値にはあまりにも格差が表れている。もちろん高遠や長谷と遠山を単純に比較するのが正しいとは言えないかもしれないが、ふだんそれらの地域に足を運んでいる者としてみても、遠山谷とは違うと見える。数値的に見ても80パーセント程度の高遠や長谷に比べれば、それらに何十パーセントも差をつけている遠山谷は異常である。

 なお、前回の表2にもあげられている旧木曽福島町の減少も特別かもしれない。これは国勢調査の値であるというあたりが影響しているのではないか。国勢調査と住民基本台帳の人口の違いはご存知の通りである。木曽福島は木曽谷の中心ということもあって、国勢調査上は基本台帳よりも多くなりがちなのではないだろうか。そのあたりがこの15年で特別な変化があったと思われる。住民基本台帳だけで比較するとこんなに減っていないのではないか、とはわたしの想像に過ぎないが、そこまで今回のデータでは解析していない。

 いずれにしても遠山谷の人口減少は、県内の中で異常な値を示しているということを知ってもらいたい。矢筈トンネルを越えてしばらく南下すると旧上村の中心である上町(かんまち)に至る。そのすぐ南は旧南信濃村である。そこに知人の家があるが、並んで比較的新しい家が数軒あるが、知人の家以外は、新しい家なのにしばらく前から無住である。かつて何度も泊りで仕事に行って、お客さんと町へ飲みに出たあの南信濃村ですら間もなく人口千人を切ろうとしている。

付記 長野県住民と自治研究所は、「研究所だより」(175号)に「県内自治体の人口減少「加速度」」を載せている。2020年の国勢調査を受けてまとめたものだが、前回のように旧町村単位でのデータ更新はされなかった。データがなかったとも言えるのかもしれないが、既に合併後20年を経て、今さら旧町村単位でものを言うのはナンセンスなのかもしれない。

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遠山谷の〝今〟

2025-02-01 23:02:44 | 地域から学ぶ

〝須沢の記憶〟より

 年明け前の年末に、遠山谷の和田まで走った。目的は〝かたくり〟まで「ふじ姫まんじゅう」を買いに行ったのだが、まだ開店前の午前7時30分には用意できると聞いていて、その時間に合わせて向かって、購入するとすぐに引き返すという、「行った」とはいってもほんのわずかな滞在に過ぎなかったわけであるが、年に1,2回こうして〝かたくり〟まで走る。何年も繰り返していると、その時間帯だけのわずかな滞在での印象しか語れないが、その短時間で捉えてきた印象がある。ちなみにちゃんと遠山の谷に身をおいたのは、下和田の庚申堂を訪れた2015年までさかのぼるのかもしれない。同じころ此田にも足を運んでいる。ちなみに2019年に「損をしたムラ」を記している。この時もまんじゅうを買いに行っており、まだ〝かたくり〟が町の中のお寺の近くにあった。そこに「饅頭屋さんは盛況なのに、この日矢筈トンネルの裾野にある喬木村小川から遠山の和田まで向かう車に、わたしの他には2台しか姿を見なかった」と書いており、「和田に近づくと地元の方と思われる車に追いついたが、その1台だけ。快適に走ることができたことは確かだが、こんなに車の走っていない遠山は、今までになかった光景」と記し、最後に日記のタイトルにもなった「平成の合併で、損をしたムラ、とわたしは思う」とわたし的な感想を漏らして終えている。わずかな滞在時間だけで足を運ぶたびに変化を少しずつ感じていたわたしには、そう思えたわけである。

 2019年の際は午前10時ころ走った印象だったが、最近は開店前に行っている。平日だから遠山へ仕事に行く車と出会うし、対向車も仕事へ遠山から飯田方面へ出る人と出会う。ようは車の往来が比較的多い時間帯に走っていると言えるのだろうが、とはいえそれほど多くの車に出会うわけではない。快適な道であることに変わりはないのだが、現在伊那谷側で盛んに造られている三遠南信道は、専用道路で設置される予定だったが、矢筈トンネルから八重河内までの遠山の谷の間は国道との併用になった。したがって快適とはいえ、ふつうの道を走るから高速道路のようなわけにはいかない。同じ下伊那郡だが、わが家からはかなりスピードを出して走っても1時間かかる。ゆっくり走るととても1時間では無理だ。

 いずれにしても昔の遠山を知っていて、さらに度々足を運んできた者にとっては、今の遠山の谷は静かで、人の気配が感じられない谷になってしまった。とくに旧南信濃より旧上だろうか、かつて人が住んでいた家々から人気を感じなくなっているのは…。長野県住民と自治研究所というところが2019年12月23日に「研究所だより」(155号)を発行しており、タイトルは「旧市町村単位でみた長野県内の人口動向」というもの。そこを見ると、平成の合併前と後の人口変動について詳細を述べている。

 

 「旧市町村でみた人口増・人口減の上位」一覧を見ると、1位は旧南信濃村で40.2パーセント、2位は旧上村で49.3パーセントとなっている。これは2000年と2015年の国勢調査での人口を比較したもので、半減以上というのはこの2村のみである。旧上村の方が人口が減少しているのでは、と思っていたところこの報告では逆転していた。そこでもう少し詳しく見てみようと、飯田市が発表している住民基本台帳に登録された人口データで比較してみた。グラフを二つ示す(市のデータを一覧化してグラフにしてみた)が、一つ目は「人口」、二つ目は「世帯数」である。平成7年(1995)と平成12年(2000)の数値は国勢調査のもの、それ以外は住民基本台帳のものである。2000年と住民基本台帳の数値で比較すると、旧南信濃村は44パーセント、旧上村は39パーセントとなっており、やはり旧上村の方が減少率は高いように思う。1995年値に比較すれば、41パーセントと37パーセントということで、この20年で人口が3分の1近くに減っているということになる。そして県内では突出している数値なのである。

 

飯田市内の地区別人口比較

 ちなみに飯田市内の地区ごとについて合併した平成17年10月末日と、令和6年の10月末日(合併19年後)の人口とその比率を示してみたのが表である。市全体が平成17年を100として88パーセント。各地区を見ると松尾のみ増加していて102パーセント。あとは全て減少しているが、遠山以外では66パーセントの上久堅や68パーセントの千代が目立つが、上村はその半分に近い数値である。いかに遠山だけ極端に人口が減っているかわかるだろう。あながちわたしが感じ取っている印象は間違いではない、ということになる。

「平成の合併後の今」

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