ブログ 「蓬窓閑話」の中での
「長い一生のうちには、さまざまな事があり、それこそ
喜びも悲しみも乗りこえて、いま、ここにいる。
行き暮れて……」
つゆさんのこの言葉、身に沁みます
そして 誰もいなくなった>
昔、笑い話にしていたこの言葉が、気がつけば
今わが身に起こっています
今は只々彼岸の岸で待ってる人の顔を数を数えて
諦観して日々過ごしています
「諦観の境地に至り、何事にも動じなくなった」
のは良い事か悪い事か。。。
私の人生航路は
行き暮れて 倒れしままの 我が身かな
昔の人の教養が羨ましいです
私も歌が詠めたら、この先を<歌詠み人>で
過ごせればと望むんですが、残念ながら<笑
自分で言い聞かせているだけでお恥ずかしいです
何事にも封をして、生きてはいるけど人生は終わったと、身の回りの事だけを我儘に過ごしています
これも良いことか悪いことかも考えることも止めて
います。ただこれらが<諦めでも絶望でもない>と言うことに感謝し、我儘人生の最期の日々を過ごしています
諦観というのは言い過ぎでした。お恥ずかしいです
そうですよ、kinshiroさんまだまだお若い!
明るい春を見据えてkinshiroさんらしく
明るく元気に日々過ごして下さい
<下手な考え休みに似たり>
まだまだオバサンに同調するのは早い早い!
ですよ<笑
行きくれての言葉に、もう先がないことが暗示されていて、それが歳を重ねてきた、私たちの胸に沁み入るのでしょう。
出だしの五語に、こんなにも深い意味を感じさせるとは、やはり名手ですね。
それは素晴らしい。当に禅の境地。三昧ですねぇ。敬服の極みです。
恥ずかしながら私は仏教者の端くれ。経を読み、時には袈裟をかけ、法話もします。
されど己が心は荒波を行く小舟の如。恥ずべし、痛むべし。失礼致しました。
(三帰依> yo-サンこと 釈豊輝
人は誰も最後は一人
でも、最後まで最後の一人にはなりたくない、、
さて、どうやって、この悲しみ切なさを乗り越えるか・・
と、思いながら月日は黙っても過ぎ越し行く・・
春でも明るい春でない、、それでも季節は移り行くから、やはり強い気持ちをもって、自然に逆らわず、生きていくしかないんですね。
色々と考える昨今、何だかねぇ‥共感を得たのか、得た気分にホッとしてるのか、、です